恐れ多くも、審査員の席に座って
これまで私は、演奏者として数えきれないほど舞台に立ってきました。けれど、ある日「審査をお願いしたい」と声をかけていただいたとき、胸の奥がざわめいたのを今でも覚えています。“聴く側”になる――その言葉の重さに、身が引き締まる思いがしました。
当日、ホールに入ると、これまでとはまったく異なる世界が広がっていました。舞台を見つめるその距離の近さ、沈黙の中で始まる一音一音の緊張。ステージの上の演奏者たちは、光の中で音を紡ぎ、私は暗い客席からそのすべてを受け止める。
「審査する」という立場でありながら、私自身が多くのことを学ばせていただいた一日でした。
今回は、そんな経験を通して感じた「コンクールの裏側」を、審査員の視点からお伝えしたいと思います。 舞台に立つ方にも、音楽を支える方にも、少しでも参考になれば幸いです。
1. 日にちや順番で結果は変わることがある
審査員はできる限り公平であろうと努めています。しかし、人間の感覚にはどうしても「限界」があります。
同じ基準で聴いているつもりでも、午前と午後、初日と最終日では印象が微妙に変わる。午前の早い時間は耳がまだ慣れておらず、細部が聴き取りづらいことがあります。一方で、午後になると耳は敏感になり、ほんの小さな乱れにも気づくようになる。さらに、長時間の審査では集中力も少しずつ変化します。
会場の響きや湿度の違い、楽器の鳴り方、ピアノの状態など――。そうした“条件の揺らぎ”は避けられません。だからこそ、演奏者に求められるのは「どんな環境でもベストを尽くせる力」です。
舞台袖で順番を待ちながら、「もっと早い順番だったら」「昨日だったら」と思う気持ちは自然なことです。けれど、審査員の耳を一瞬で引きつけるような演奏には、そうした条件を超える力があります。音の第一声で空気を変えるような存在感――。それが“本当の実力”と呼ばれるものなのだと感じます。
2. 審査員によって、評価基準は驚くほど違う
審査を重ねるうちに、改めて痛感することがあります。それは「審査員によって評価の物差しはまったく違う」ということ。
- ある方は音程やリズムの精度を重んじ、演奏の完成度を基準にします。
- 別の方は、音楽の流れや感情表現を重視し、「どれだけ作品と対話しているか」を見る。
- 中には「その人らしさ」や「音の個性」を最も高く評価する方もいます。
同じ演奏に対して、まったく異なるコメントが並ぶことも少なくありません。ある審査員は「情感豊かで印象的」と記し、別の審査員は「感情が先走りすぎて構成が不安定」と評する。どちらも間違いではなく、それぞれの音楽観の違いなのです。
だからこそ、結果だけで自分を判断しないでください。「点数」は一つの目安にすぎません。本当の価値は、その裏にある“耳の多様さ”を知ること。審査員は、あなたの音を「ある視点から見た意見」として伝えているのです。
むしろ、複数の意見があるということは、あなたの音に“個性”がある証拠。誰からも平均的に「上手い」と言われるよりも、「この音が好き」と言わせる演奏こそ、音楽家としての魅力の始まりなのです。
3. それでも入賞する人は“誰が聴いても”わかる
とはいえ、どんな審査員が集まっても、「この人は抜きん出ている」と全員が感じる演奏があります。
そうした奏者の共通点は、ただ技術が高いというだけではありません。音のひとつひとつに意味があり、流れに無駄がない。静かな部分にも強い集中があり、強弱の幅が自然に呼吸している。まるで音が“生きている”ような演奏です。
その瞬間、会場の空気が変わるのを感じます。誰もが息をひそめ、音に引き込まれていく。そんな演奏に出会うと、審査員全員が深く頷くのです。
“圧倒的な実力”とは、努力の積み重ねが限界を超え、音楽そのものが「人を動かす力」に変わったときに生まれます。どんな順番でも、どんな審査員でも、結局は入賞する――。それが音楽の世界の厳しくも公正な一面です。
4. 立ち居振る舞いも、意外と見られている
審査員席から見ていると、舞台上での立ち居振る舞いには、その人の音楽に対する姿勢がはっきりと表れます。
ステージに出てくるときの歩き方、楽器を構える所作、チューニングの丁寧さ。一礼の角度や目線の位置まで、意外と細かく見えています。
ある奏者は、ゆっくりと深く礼をし、静かに楽器を構えました。その姿には音楽への敬意があり、まだ音を出していないのに会場全体が自然と静まり返りました。そして最初の一音を奏でた瞬間、その所作の美しさがそのまま音に変わったかのように感じました。
一方で、慌ただしく舞台に出てきて落ち着かない様子の演奏者は、どんなに高い技術を持っていても、聴く側に安心感を与えにくい。音楽は「人が奏でるもの」であり、姿勢や動作も含めて表現の一部です。
舞台上での礼節や落ち着きは、音楽の品格そのもの。それは“上手さ”とは別の次元で、聴き手の心に残るのです。
5. 他の参加者の演奏を聴くことに、最大の価値がある
コンクールの価値は「競う」ことだけではありません。むしろ「学びの場」としての意義の方がずっと大きいと感じます。
他の参加者の演奏を聴くことで、自分の音を客観的に見つめ直すことができます。「自分はなぜこのテンポを選んだのか」「音の方向性はこれで良いのか」。他者の表現に触れることで、自分の中の“答え”が明確になっていくのです。
上位入賞者の演奏を聴くと、その理由が自然と理解できることがあります。テクニックの正確さだけでなく、音楽の呼吸、フレーズの自然な流れ、無理のない身体の使い方――。それらは楽譜を超えた「音楽の本質」に触れる瞬間です。
また、他人の演奏を通して「自分はどう感じたか」を考えることも大切です。感動した部分、違和感を覚えた部分、そのすべてが学びになります。コンクールを“他人の努力を聴く機会”として捉えられたとき、あなたの音楽は、結果以上の成長を遂げるはずです。
おわりに ― 「審査される」ことの先に
審査員としてコンクールに立ち会うと、ひとつひとつの演奏に込められた努力の重みを痛感します。舞台に立つ勇気、練習に費やした時間、音に込められた想い。そのどれもが尊く、「点数」で測ることのできない価値を持っています。
審査の仕事は、演奏を“評価する”ことではなく、その人の音楽を“尊重して受け止める”ことだと思っています。順位や点数はひとつの形にすぎません。けれど、演奏に込められた真剣な時間と情熱は、必ず誰かの心に残ります。
どうか結果だけにとらわれず、「今回の経験で何を学べたか」に目を向けてください。本番の緊張、他人の音から得た刺激、審査員の言葉。そのすべてが、次の音楽をより深くする糧になります。
音楽の道において最も大切なのは、“続けること”です。一度の結果ではなく、日々の努力の積み重ねが、やがてあなた自身の音楽を育てていく。
コンクールは、挑戦の場であり、成長の場であり、何よりも「音楽と自分自身が対話する場所」です。その先に広がる世界を信じて、一音一音を大切に奏でてください。