十七歳の火花と祈り
ヴィエニアフスキ《ヴァイオリン協奏曲第1番 嬰ヘ短調》

「人間に、こんなことができるのか」
見ていて、思わず息を呑んでしまう瞬間がある。
超一流のアスリートが、あり得ない身体の動きを見せたとき。職人が、目にも留まらぬ速さで見事な手仕事をやってのけたとき。「同じ人間なのに、どうしてこんなことが」と、驚きを通り越して、少し怖くなるほどの技。私たちは、人間の能力の限界が、目の前でひょいと超えられていくのを見ると、理屈抜きに心を奪われてしまう。
私にとって、その感覚を最初に教えてくれたのが、ヴァイオリンという楽器だった。
一本の弦に、たった四本の指と一本の弓。それだけの道具で、人はここまでのことができるのか――初めて名手の演奏を聴いたとき、私は椅子から動けなくなった。指が信じられない速さで駆け回り、音が滝のように降り注ぎ、かと思えば、たった一音が、泣いているように長く長く歌う。人間の手が、これほどのことをやってのける。その事実に、私は打ちのめされた。
この協奏曲は、まさにそういう曲だ。
冒頭、オーケストラがドラマチックに幕を開けると、やがて独奏ヴァイオリンが飛び込んでくる。その瞬間から、次々と繰り出される超絶技巧の連続。速く、高く、華やかに、これでもかと技が畳みかけられる。まるで、ヴァイオリンで可能なことのすべてを、一曲に詰め込んでやろうという気迫だ。
そして、この曲を書いたのが、なんと十七歳前後の少年だったと知って、私はもう一度、椅子から転げ落ちそうになった。
これは、そういう音楽だ。あふれる才能を持て余した若者が、「僕にはこれだけのことができる」と、世界に向かって放った、まばゆい名刺代わりの一曲である。
若くして駆け抜けた、ヴァイオリンの申し子
ヘンリク・ヴィエニアフスキ。1835年にポーランドのルブリンで生まれ、1880年に亡くなったヴァイオリニストであり作曲家だ。
彼は、まさにヴァイオリンのために生まれてきたような人だった。幼い頃からその才能は際立っており、当時は年齢制限のあったパリの名門音楽院に、規則を曲げてまで異例の若さで迎え入れられたほどだ。長じては、19世紀を代表する大ヴァイオリニストとして、ヨーロッパからロシア、アメリカまで、世界中を演奏して回った。あの「悪魔的名人」パガニーニの再来とも称された、まさに超一流の弾き手だった。
だがその輝かしい生涯は、短かった。休みない演奏旅行に身を削り、彼はわずか44歳で世を去る。燃え尽きるように駆け抜けた、才能の人だった。
演奏者として言うと、ヴィエニアフスキの音楽には、はっきりした癖がある。 技巧の難しさと、歌心が、分かちがたく結びついている ことだ。彼の曲は、とにかく難しい。指がもつれそうな速いパッセージ、二本の弦を同時に鳴らす技、弓を弾ませる曲芸のような奏法――ありとあらゆる難技が、これでもかと盛り込まれている。
だが、それは決して、技を見せびらかすためだけのものではない。彼の超絶技巧の奥には、いつも「歌」がある。故郷ポーランドの、哀愁を帯びた旋律。むせび泣くような、切ない歌心。派手な技のただ中にも、ふと胸を締めつける美しい旋律が顔を出す。難しさと美しさが、彼の中では最初から一つのものなのだ。そこが、ただの曲芸師とは違う、ヴィエニアフスキという音楽家の品格だと私は思っている。
三つの場面を巡る、若き才能の旅
この協奏曲は三つの楽章でできている。全部で20分あまり。私はこれを、あふれる才能を抱えた一人の若者の、心の三つの表情として案内したい。
第一の場面 ― あふれ出す、若き情熱
オーケストラが、嵐の予感をはらんだ、ドラマチックな前奏を奏でる。何かが始まる、という期待が、ぐんぐん高まっていく。
そしてついに、独奏ヴァイオリンが登場する。その第一声から、もう尋常ではない。高く舞い上がり、速く駆け下り、火花を散らすように技が繰り出される。まるで、長いあいだ抑えつけていた情熱が、堰を切ってあふれ出したかのようだ。
この楽章は、嬰ヘ短調――ヴァイオリンにとっては、実はとても弾きにくい、険しい調だ。だがヴィエニアフスキは、あえてその難所を選び、そこで自在に暴れてみせる。若さゆえの、恐れ知らずの挑戦。「難しい? だから何だ」と言わんばかりの、みなぎる自信。聴いているこちらまで、血が沸き立ってくる。
かと思えば、激しさの合間に、ふと甘く切ない旋律が現れる。若者の胸の中にある、荒々しい情熱と、繊細な感受性。その両方が、めまぐるしく入れ替わりながら、音楽は進んでいく。
第二の場面 ― ひそやかな、祈り
一転して、二つ目の場面は、驚くほど静かだ。この楽章には「プレギエラ」――イタリア語で「祈り」という名がつけられている。
さっきまで技を炸裂させていた同じヴァイオリンが、ここではまるで別人のように、そっと歌い出す。装飾も、曲芸もない。ただ、澄んだ一本の旋律が、祈るように、静かに紡がれていく。
この場面を聴くと、私はいつも胸が熱くなる。あれほど「できること」を見せつけていた若者が、ここでふいに、鎧を脱ぐのだ。技の内側に隠していた、やわらかく傷つきやすい本心を、そっと差し出す。強がっていた少年が、ひとりになったとき、静かに祈りを捧げている――そんな情景が浮かぶ。
華やかな技巧よりも、こういう飾らない歌のほうが、実は演奏するのはずっと難しい。ごまかしがきかないからだ。この楽章は、若きヴィエニアフスキの、技術ではなく「心」を映し出している。
第三の場面 ― 弾けるような、歓喜
祈りのあとに来るのは、うって変わって陽気な音楽だ。 ロンド――同じ楽しい主題が何度も戻ってくる、快活な終楽章である。
ここでは、第一楽章の切実さも、第二楽章の敬虔さも、いったん脇に置かれる。かわりに広がるのは、屈託のない喜びと、いたずらっぽい遊び心だ。ヴァイオリンは、跳ねるように、転がるように、軽やかに駆け回る。弓が弦の上で弾み、音の粒がきらきらと宙を舞う。
まるで、大仕事をやり遂げた若者が、肩の力を抜いて、心から楽しんで踊っているようだ。技巧はここでも満載だが、その難しさすら、彼にとっては遊びの一部なのだろう。聴いているこちらも、思わず頬がゆるむ。そして曲は、華やかに、意気揚々と、駆け抜けるように幕を閉じる。若さとは、こういうものだったな、と思い出させてくれる幕切れだ。
舞台裏の沈黙
この協奏曲は、ヴァイオリニストにとって、一つの試練だ。数ある協奏曲の中でも、屈指の難しさで知られている。
理由の一つが、あの調性だ。嬰ヘ短調という調は、ヴァイオリンの構造上、指がとても窮屈な場所を通ることになる。しかもヴィエニアフスキは、そこで容赦なく、高い音域や複雑な技を要求してくる。弾き手は、指板の上のごく狭い領域で、綱渡りのような精密さを求められる。この曲が、彼の第2番の協奏曲に比べて演奏される機会が少ないのも、その難しさゆえだと言われている。
だが、演奏者として本当に神経を使うのは、実は技巧の難所ではない。第二楽章の「祈り」だ。
派手な技は、ある意味で気が楽な面もある。うまくいけば、聴き手はその華やかさに沸いてくれる。だが、あの静かな祈りの旋律は、そうはいかない。装飾もごまかしもきかない、むき出しの一本の歌。音程のわずかな揺れも、弓のかすかな震えも、すべてが露わになる。あそこでは、技術ではなく、その人の音楽そのものが問われる。だから私は、あの楽章に入る前、いつも深く息を吸う。
そして、この曲でいちばん張り詰めるのが、第一楽章の冒頭、独奏ヴァイオリンが初めて音を出す、その直前だ。
オーケストラが長い前奏を奏で、期待を最高潮まで高めていく。そして、ふっと音楽が止まる。 その一瞬、指揮者も、オーケストラも、客席も、みなが独奏者の第一声を待って、いっせいに息を止める。 ソリストはひとり、弓を構え、その静寂の中へ、最初の一音を放つ。あの、すべての視線と沈黙を一身に受ける瞬間の緊張は、経験した者にしかわからない。音楽は、鳴っている音だけでなく、その音を全員が待ちわびる沈黙の中にこそ宿るのだ。
170年後の私たちが、なぜまだこれを聴くのか
この曲が書かれたのは、1850年代のはじめ。170年ほど前になる。
十代の若者が、あふれる才能をぶつけるように書き上げた、超絶技巧の協奏曲。うがった見方をすれば、「自分にはこれだけできる」という、若気の至りのような自己主張の曲、と言えなくもない。
それでも、この曲が今なお弾き継がれ、聴き継がれている理由を、私はこう思っている。
この曲が閉じ込めているのは、 若さという、二度と戻らないきらめき だからだ。
思い出してほしい。この曲には、若者のすべてが詰まっている。第一楽章の、恐れを知らない情熱。第二楽章の、ふと見せる繊細な祈り。第三楽章の、屈託のない喜び。強がりと、傷つきやすさと、無邪気さ。それらが、まだ計算を知らない、まっすぐな形で音になっている。
大人になると、私たちは、こういう「全力の自己表現」を、少しずつ恥ずかしく感じるようになる。持てるものを全部見せるより、控えめに振る舞うことを覚えていく。それは成熟でもあるが、同時に、何かを失うことでもある。この曲を聴くと、私たちは、かつて自分の中にもあったはずの、あの怖いもの知らずの輝きを、ふと思い出す。
なぜ今この音楽が必要なのか。それは、無難であることばかりが求められがちな時代に、「持てるものを全部、出しきってもいいんだ」と、これほど眩しく肯定してくれる音楽が、そう多くないからだ。若さは失われても、あのきらめきを思い出すことは、いつだってできる。
あなた自身の耳で
さて、聴き方の話をしたい。だがその前に、これだけは言っておきたい。
好きに聴いていい。 難しく構える必要は、まったくない。
技巧的な曲だと聞くと、身構えてしまうかもしれない。だが、その必要はない。細かい技のひとつひとつを分析しようとしなくていい。ただ、「一本のヴァイオリンが、こんなにいろんな表情を見せるのか」と、その多彩さに驚きながら聴いてくれれば、それで十分だ。
そのうえで、もし手がかりが欲しければ、三つだけ。
ひとつめ。第一楽章では、独奏ヴァイオリンが登場する「その瞬間」を待ち構えてほしい。長い前奏のあと、火花を散らすように飛び込んでくる第一声。あのめまいのするような華やかさを、理屈抜きで浴びてほしい。
ふたつめ。第二楽章の「祈り」では、技巧ではなく「歌」に耳を傾けてほしい。派手さを封じた、飾らない一本の旋律。若者がふと見せる素顔のような、その切ない美しさに、そっと寄り添ってほしい。
みっつめ。第三楽章では、弾けるような喜びに、ただ身を任せてほしい。難しい技すら遊びに変えてしまう、あの軽やかさ。聴いているうちに、こちらまで楽しくなってくるはずだ。
そして、もしこのきらめきが心に残ったなら。
次は、同じヴィエニアフスキの 《ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ短調》 を聴いてみてほしい。第1番より少し後に書かれた、より円熟した一曲だ。技巧の華やかさはそのままに、歌心がいっそう深まっていて、こちらのほうがよく演奏される人気曲でもある。二つを聴き比べると、若き才能が成熟していく道のりが見えてくる。
もっと短く、彼の歌心だけを味わいたいなら、 《レジェンド (伝説曲)》 を。物語をそっと語りかけるような、しっとりと美しい小品だ。
急がなくていい。今日でなくてもいい。
ただ、いつか、無難に振る舞うことに少し疲れて、かつての自分の輝きが恋しくなる日が来たら。そのときは、この十七歳の若者が放った、恐れ知らずの一曲を思い出してほしい。持てるものを全部出しきる、あのまばゆさを――ヴィエニアフスキは、170年も前から、変わらず響かせ続けている。