運命という名の、頭上の剣

チャイコフスキー《交響曲第4番 ヘ短調》作品36

運命という名の、頭上の剣 ― チャイコフスキー《交響曲第4番 ヘ短調》作品36
本作はAIの手によって紡がれたフィクションです。物語として、自由な想像とともにお楽しみいただけましたら幸いです。
再生しながら記事を読み進めると、音楽と記事を同時にお楽しみ頂けます

幸せに手が届きかけた、その瞬間に

あと少しで、うまくいく。そう思った矢先に、すべてが崩れた経験はないだろうか。

手を伸ばせば届くはずだった何か。もう大丈夫だと安心しかけた、その瞬間。まるで見計らったように、予期せぬ出来事が横から割り込んできて、積み上げてきたものを台無しにする。自分の努力や意志とは関係のない、大きな力に弾き飛ばされたような、あの無力感。「なぜ、よりによって今なのか」と、天を恨みたくなる、あの理不尽。

そういうとき、人は思う。これは運命というものではないか、と。自分の力ではどうにもならない何かが、頭の上に居座って、幸せに近づくたびに、それを叩き落としているのではないか、と。

私がこの交響曲を初めて聴いたとき、まさにその「頭上の力」に、いきなり殴りつけられた気がした。

冒頭。 ホルンとファゴットが、いきなり不吉なファンファーレを叩きつける。 ダ・ダ・ダーッ、と。荒々しく、有無を言わさず、まるで運命の宣告のように。作曲したチャイコフスキー自身が、この音楽を「運命」と呼んだ。人の幸福を妨げ、頭上に吊るされた剣のように、いつ落ちてくるかわからない力なのだ、と。

その音を聴いた瞬間、私は自分のことを言われている気がした。ああ、あのとき私を弾き飛ばしたのは、これだったのか、と。

これは、そういう音楽だ。自分ではどうにもならない運命と、それでもなお生きようとする一人の人間の、壮絶な格闘の記録である。

心を病むほど追い詰められた男の、魂の叫び

ピョートル・チャイコフスキー。1840年にロシアに生まれ、1893年に亡くなった作曲家だ。《白鳥の湖》や《くるみ割り人形》のバレエ音楽で、名前だけは知っている人も多いだろう。

だが、この交響曲第4番が書かれた1877年から78年にかけて、彼の人生はどん底にあった。この時期、彼はある結婚に踏み切るのだが、それは最初からうまくいくはずのないものだった。心の均衡は崩れ、深刻な神経の病に追い詰められ、彼は結婚生活から逃げ出す。まさに、人生が音を立てて崩れていく最中に、この曲は書かれた。だからこの音楽には、綺麗事では済まされない、生々しい魂の叫びがこもっている。

そしてこの曲は、「わが最良の友へ」という言葉とともに、ある女性に捧げられている。ナジェージダ・フォン・メック夫人――彼を経済的に支え続けた大富豪の未亡人だ。奇妙なことに、二人は膨大な手紙をやりとりしながら、生涯ただの一度も直接会うことはなかった。手紙の中だけの、魂の伴侶。チャイコフスキーは彼女に宛てた手紙で、この曲の「筋書き」を詳しく打ち明けている。だから私たちは、彼がこの音楽に何を込めたのかを、彼自身の言葉で知ることができる。

演奏者として言うと、チャイコフスキーの音には、はっきりした癖がある。 感情を、隠さない のだ。西欧の作曲家がときに感情を抑制の美でくるむのに対し、彼は喜びも悲しみも、あふれるままに音にする。旋律は甘く、切なく、胸を締めつける。かと思えば、突然、身を焦がすような激情に転じる。上品にまとめようとしない、その正直さ。聴く者の感情移入を、これでもかと誘い込む。だからこそ、彼の音楽はこれほど多くの人の心をつかんで離さない。

四つの場面を生きる、運命との格闘

この曲は四つの楽章でできている。全部で40分あまり。チャイコフスキー自身の打ち明けた筋書きに沿って、私はこれを、運命に翻弄される一人の人間の、心の旅として案内したい。

第一の場面 ― 逃げても追ってくる、頭上の剣

冒頭の、あの不吉なファンファーレ。これが「運命」だ。曲全体を貫き、要所要所で何度も戻ってきては、幸福に近づこうとする者を打ちのめす。

その宣告のあと、主人公の心を思わせる旋律が始まる。ためらいがちで、憂いを帯びた足取り。やがて音楽は、優雅なワルツのような、甘い夢想へと逃げ込んでいく。つらい現実から目をそらし、束の間の幻想に身を委ねる――現実が苦しいとき、人は誰しも空想の中へ逃げ込むものだ。

だが、その甘い夢は長く続かない。決まって、あの運命のファンファーレが割り込んできて、夢を打ち砕く。逃げても、逃げても、頭上の剣は追ってくる。この楽章は、その終わりのない追いかけっこだ。20分近く、心は安らぐ場所を見つけられないまま、翻弄され続ける。

第二の場面 ― ひとりの夕暮れに、こみ上げる思い

一転して、二つ目の場面は、深い物思いに沈む。オーボエが、寂しげな旋律をぽつりと歌い出す。

チャイコフスキー自身、この楽章を「仕事を終えて、ひとり夜に腰を下ろしたときの、あの憂鬱な感情」と表現している。過ぎ去った日々が、次々と心に浮かんでは消えていく。楽しかったことも、悲しかったことも。もう戻らない時間への、甘くて苦い郷愁。

一日の終わり、部屋にひとりでいるとき、ふいに昔のことがこみ上げてきて、胸が締めつけられる――あの感覚を、この音楽はそのまま音にしている。派手さはない。だが、疲れた心にじんわりと沁みてくる、静かな悲しみがそこにある。

第三の場面 ― 弦をつま弾く、酔いどれの幻

三つ目の場面は、まったく変わった音がする。 弦楽器が、弓をいっさい使わず、指で弦をつま弾くだけ で演奏されるのだ。ピチカート、と呼ばれる奏法である。

その音は、ぽつ、ぽつ、と、実体のない幻のように宙を舞う。チャイコフスキーはこの楽章を、少し酔ったときに頭をよぎる、とりとめのない幻想のようなものだと語っている。はっきりした形を持たない、つかもうとすると消えてしまうイメージたちが、次から次へと現れては去っていく。

途中、木管楽器がひょっこり顔を出し、酔っ払いの陽気な鼻歌のような旋律を奏でたりもする。真剣なのか、ふざけているのかわからない、夢と現のあいだの、ふわふわした時間。この楽章の軽やかで不思議な浮遊感は、他のどの交響曲にもない、独特の味わいだ。

第四の場面 ― 人々の喜びの中に、生きる道を見つける

そして最後の場面。突然、目もくらむような喧騒とともに、祭りが始まる。

チャイコフスキーはこう書いている。自分の中に喜びが見つからないなら、外へ出て、人々の中へ行け、と。祝祭に沸く人々の輪の中で、他人の喜びを見て、そこから生きる力を分けてもらうのだ、と。ここでは、ロシアの民謡「 野に立つ白樺 」の素朴な旋律が使われ、それが次々と姿を変えて、祭りを盛り上げていく。

だが――祭りが最高潮に達したその瞬間、あの運命のファンファーレが、容赦なく割り込んでくる。忘れたと思っていた頭上の剣は、まだそこにあったのだ。

しかし、今度は違う。主人公はもう、打ちのめされて終わりはしない。運命の一撃をくぐり抜け、ふたたび祭りの渦の中へ戻っていく。そして曲は、力ずくで、しかし確かに、輝かしい歓喜のうちに幕を閉じる。「たとえ運命が消えなくても、人々の喜びの中で、まだ生きていける」――そう自らに言い聞かせるように。

舞台裏の沈黙

この交響曲を演奏することは、オーケストラにとって全身全霊の総力戦だ。

まず、冒頭のあのファンファーレ。あれを鳴らすホルンと金管にとって、これほど怖い開幕はない。曲がまだ静まりかえっている中、いきなり全開で、しかも完璧に息を合わせて、あの「運命の宣告」を叩き込まなければならない。少しでも音が揺れたり、タイミングがずれたりすれば、あの圧倒的な威圧感は生まれない。奏者たちは、最初の一音のために、全神経を研ぎ澄ませて舞台に上がる。

そして、私がいつも特別な緊張を感じるのが、第三の場面のピチカートだ。数十人の弦楽器奏者が、弓を置き、いっせいに指で弦をつま弾く。これが、想像以上に難しい。全員の指が、寸分の狂いもなく揃わなければ、あの幻のような軽やかさは濁ってしまう。速いパッセージを、粒を揃えて、しかも軽やかに――指先だけで音楽を作るこの繊細な作業に、奏者たちは息を詰めて集中する。あの静かな緊張感は、客席からは見えないところにある。

だが本当に張り詰めるのは、最終楽章、祭りの絶頂で運命のファンファーレが割り込んでくる、あの直前だ。狂騒が頂点に達し、次の瞬間、すべてが叩き落とされる。あそこへ突入する寸前、指揮者の棒が空中で一瞬止まる。 その刹那、舞台の全員が息を止める。 そして、運命の一撃が振り下ろされる。あの緊張と解放は、何度演奏しても背筋が伸びる。音楽は、鳴っている音だけでなく、その一撃を全員が待ち受ける沈黙の中にこそ宿るのだ。

150年後の私たちが、なぜまだこれを聴くのか

1878年に初演された曲だ。150年近く前になる。

心を病むほど追い詰められた作曲家が、人生のどん底で書いた音楽。運命に打ちのめされ、それでも生きようともがいた、一人の人間の記録。

そんな曲が、なぜ今も世界中で愛され、演奏され続けているのか。私は、こう思っている。

この交響曲が差し出しているのは、 運命は消えないが、それでも生きていける という、苦く、しかし確かな答えだからだ。

思い出してほしい。この曲の運命のファンファーレは、最後まで消えない。克服もされない。最終楽章の祭りの絶頂でさえ、それは戻ってきて、主人公を打ちのめす。チャイコフスキーは、安易な大団円を用意しなかった。運命が消え去って、めでたしめでたし、とはしなかったのだ。

かわりに彼が示したのは、こういうことだ。運命は消えない。だが、自分の中に喜びが見つからないときは、外へ出て、人々の喜びの中に身を置けばいい。他人の幸せを分けてもらいながら、それでも生きていけばいい、と。これは、彼自身が人生のどん底で、必死につかみ取った答えだったに違いない。

私たちも、生きていれば、自分ではどうにもならない出来事に打ちのめされる。運命を消すことはできない。だが、この曲は教えてくれる。消せないものを抱えたままでも、人は生きていけるのだ、と。

なぜ今この音楽が必要なのか。それは、思い通りにならないことばかりの人生の中で、「それでも生きていい」と、これほど正直に、これほど力強く背中を押してくれる音楽が、そう多くないからだ。

あなた自身の耳で

さて、聴き方の話をしたい。だがその前に、これだけは言っておきたい。

好きに聴いていい。 難しく構える必要は、まったくない。

40分は長い。全部を理解しようと気を張らなくていい。この曲は激しく感情が揺れ動くが、その揺れに素直に身を任せているだけで、あなたの心は自然とこの音楽に共鳴していくはずだ。

そのうえで、もし手がかりが欲しければ、三つだけ。

ひとつめ。冒頭の不吉なファンファーレを、覚えておいてほしい。 これが「運命」だ。この響きが、曲のあちこちで戻ってくる。「あ、また運命が来た」と気づけたら、この曲が一つの物語を語っていることが、はっきり伝わってくる。

ふたつめ。第三楽章では、「弓を使わない弦の音」を楽しんでほしい。 指でつま弾く、ぽつぽつとした不思議な音。あの軽やかで幻のような響きは、この曲ならではの名場面だ。理屈抜きで、その手触りを味わってほしい。

みっつめ。最終楽章では、祭りの熱狂の中に突然割り込んでくる運命に、耳をそばだててほしい。 そして、それでも主人公が立ち上がり、また祭りへ戻っていくことに気づいてほしい。あの「それでも生きる」という結末こそ、この曲の心臓だ。

そして、もしこの運命との格闘が心に残ったなら。

次は、同じチャイコフスキーの《交響曲第5番 ホ短調》 を聴いてみてほしい。同じく「運命」との闘いを描いた曲だが、こちらは最後に、より晴れやかな勝利へとたどり着く。第4番と聴き比べると、彼の心の変化まで感じ取れるはずだ。

もう少し華やかで親しみやすいものに触れたくなったら、バレエ音楽の《くるみ割り人形》 を。愛らしく夢のような旋律に満ちた、彼のもう一つの顔に出会える。

急がなくていい。今日でなくてもいい。

ただ、いつか自分ではどうにもならない何かに打ちのめされ、それでも歩き出さなければならない日が来たら。そのときは、この曲のことを思い出してほしい。運命は消えなくても、人は生きていけるのだと――チャイコフスキーは、150年近く前に、自らの痛みを賭けて、そう示してくれている。

体験レッスンを受けてみませんか?

プロの講師が、あなたに合ったレッスンをご提案します。

体験レッスンを申し込む