美しすぎて、少し切ない
シューベルト《弦楽五重奏曲 ハ長調》D956

幸せなのに、なぜか泣きたくなる
幸せの絶頂で、ふいに泣きたくなったことはないだろうか。
大切な人と過ごす、なんでもない夜。窓の外は静かで、部屋にはやわらかな灯り。ただ隣に誰かがいて、それだけで満たされている。そんなとき、胸の奥がじんと熱くなって、理由もなく涙がこみ上げてくることがある。悲しいわけではない。むしろ幸せすぎるのだ。ただ、この時間がいつか終わってしまうことを、心のどこかが知っている。だからこそ、この一瞬が、たまらなく愛おしくて、切ない。
喜びと悲しみが、同じ一つの感情になる瞬間。人生でいちばん深い幸福は、たいていこの切なさと隣り合わせだ。
私がこの曲を初めて聴いたとき、まさにその感情に、まるごと包み込まれた。
五つの弦楽器が、寄り添うように、あたたかな和音を奏でる。ふくよかで、深く、どこまでも優しい響き。それは、これ以上ないほど美しいのに、聴いているうちに、なぜか胸が締めつけられてくる。幸せな音楽のはずなのに、その幸せの底に、そっと影が差している。美しすぎて、少し切ない――そんな不思議な音楽だった。
そして、この曲を書いたのが、死を目前にした、31歳の若者だったと知って、私はその切なさの正体に触れた気がした。
これは、そういう音楽だ。命の終わりを前にした人が残した、この世のものとは思えないほど美しく、そして限りなく優しい、別れの歌である。
歌の天才が、最期に残したもの
フランツ・シューベルト。1797年にウィーン近郊で生まれ、1828年に亡くなった作曲家だ。亡くなったとき、彼はまだ31歳だった。
彼は「歌曲の王」と呼ばれている。生涯に600曲を超える歌を書き、詩に美しい旋律をつける天才だった。その才能は、歌だけにとどまらない。あらゆるジャンルに、心を打つ旋律を残した。だが、生きているあいだ、彼が正当に評価されることはほとんどなかった。貧しく、報われないまま、若くして世を去ったのだ。
この弦楽五重奏曲は、彼が亡くなる年、1828年に書かれた。まさに、人生の最後の数か月に生み出された作品である。そして悲しいことに、彼はこの曲が演奏されるのを、一度も聴くことができなかった。この傑作が初めて人前で奏でられたのは、彼の死から20年以上も経ってからのことだ。自分の書いた最高の音楽が、これほど愛されることを、彼は知らないまま逝った。
演奏者として言うと、シューベルトの音には、はっきりした癖がある。 長調と短調のあいだを、ふっと行き来する ことだ。明るい旋律を歌っていたかと思うと、ほんの一瞬、影が差すように、悲しい響きに転じる。そしてまた、何事もなかったように明るさへ戻る。その、光と影のたゆたいこそが、シューベルトの音楽の魂だ。喜びの中に悲しみを、悲しみの中に慰めを、彼は同時に描くことができた。
そしてこの曲には、もう一つ、大きな秘密がある。楽器の編成だ。ふつう弦楽五重奏といえば、ヴァイオリン2、ヴィオラ2、チェロ1という組み合わせが多い。だがシューベルトは、あえて チェロを2本 使った。この低く豊かな声がもう一つ加わることで、音楽全体が、えも言われぬ深みと、包み込むようなあたたかさを帯びる。この編成こそ、この曲の唯一無二の魅力の源なのだ。
四つの場面を巡る、別れの旅
この曲は四つの楽章でできている。全部で50分あまり。長い曲だが、その一分一秒に、汲めども尽きぬ美しさが詰まっている。私はこれを、命の終わりを見つめた人の、心の四つの風景として案内したい。
第一の場面 ― 光の中に、差す影
冒頭、ハ長調の和音が、まるで無から生まれるように、ふわりと立ち上がる。だがその明るい響きは、次の瞬間、すっと翳りを帯びる。光の中に、影が差す。この最初の数秒だけで、シューベルトの世界へ引き込まれてしまう。
この楽章でとりわけ美しいのが、二本のチェロが寄り添って歌う場面だ。低い二つの声が、まるで語り合う恋人同士のように、切なくも優しい旋律を紡ぎ合う。この二重唱は、室内楽のすべての中でも、最も美しい瞬間の一つと言っていい。聴いていると、胸がいっぱいになって、時間を忘れてしまう。
第二の場面 ― 時が止まる、天上の静けさ
二つ目の場面は、この曲の心臓であり、多くの人が「これ以上に美しい音楽はない」と口を揃える、奇跡のような緩徐楽章だ。
内側の三つの楽器が、賛美歌のように、長く長く和音を持続させる。その上を、第一ヴァイオリンが、天から降りてくる光のように、ごく繊細な旋律を漂わせる。そして、いちばん下では、チェロが、ぽつり、ぽつりと、雫のような音をつま弾く。すべてが、静止している。まるで、時間そのものが止まってしまったかのようだ。息をするのも忘れるほどの、天上の静けさ。この世の音とは思えない。
だが、その永遠のような平安は、突然、破られる。中間部で、音楽は激しく荒れ狂う。まるで、安らかな眠りを引き裂く、悲痛な叫びのように。死への恐怖か、生への未練か――それまでの静けさが嘘のような、切迫した嵐が吹き荒れる。
そしてやがて、嵐は去り、ふたたびあの天上の静けさが戻ってくる。だが、それはもう、最初とまったく同じではない。恐怖を通り抜けたあとの平安には、より深い、より切ない色合いが加わっている。この、天国と地獄を行き来するような振れ幅こそ、この楽章が人々の心を打ち続ける理由だ。
第三の場面 ― 大地を踏みしめる、生の躍動
一転して、三つ目の場面は、力強く、生き生きとしている。 スケルツォ――弾むようなリズムで、まるで野山を駆け回るような、開放的で健やかな音楽だ。狩りの角笛のような響きも聞こえ、大地の匂いがする。生きることの、素朴な喜びと躍動感。
ところが、その中間部で、音楽は驚くほど暗く、静かに沈み込む。あれほど陽気だったのが嘘のように、ゆっくりとした、謎めいた、どこか葬送を思わせる響きに変わる。生の躍動のただ中に、ふいに口を開ける、深い闇。この落差の激しさに、私はいつもぞくりとする。そしてまた、何事もなかったように、あの健やかな踊りが戻ってくる。
第四の場面 ― 影を宿した、別れの踊り
最後の場面は、軽やかで、どこか異国風の哀愁を帯びた、踊りの音楽だ。ハンガリーの民俗音楽を思わせる、少し翳りのある旋律が、生き生きと躍動する。
明るく楽しげでありながら、その底には、やはりあの切なさが流れている。喜びと悲しみが分かちがたく溶け合った、シューベルトならではの踊り。音楽は次第に熱を帯び、終盤、テンポを速めながら、輝かしい終わりへと駆け上がっていく。
だが、その最後の最後で、シューベルトはひとつ、忘れがたい仕掛けを残す。曲を締めくくる、まさに最後の音に、ほんのわずかな翳りが差すのだ。晴れやかに終わったはずなのに、心の片隅に、小さな痛みのような余韻が残る。まるで、笑顔で手を振りながら、その目にうっすらと涙を浮かべているような。この一瞬の切なさこそ、この曲全体を貫く感情の、最後のひとしずくなのだ。
舞台裏の沈黙
この曲を演奏することは、五人の奏者にとって、特別な体験だ。指揮者はいない。五人が、互いの呼吸だけを頼りに、一つの音楽を作り上げていく。それは、言葉を使わない、五人だけの親密な対話だ。
その中で、演奏者が最も神経を注ぐのが、あの第二楽章、天上の静けさの場面だ。
内側の三つの楽器は、長く伸ばした音を、ひたすら静かに、均一に保ち続けなければならない。これが、想像を絶するほど難しい。少しでも音が揺れたり、勢いが変わったりすれば、あの張り詰めた静寂は、たちまち崩れてしまう。奏者たちは、弓をぎりぎりまでゆっくりと動かし、息を殺して、あの永遠のような時間を支える。そのあいだ、体は緊張の極みにあるのに、音はどこまでも安らかでなければならない。矛盾に満ちた、極限の集中だ。
そして、私がこの曲でいちばん張り詰めると感じるのは、その第二楽章が始まる、最初の一音の直前だ。
前の楽章が終わり、五人が弓を構える。 その一瞬、奏者たちも、そして客席の全員が、これから訪れる静けさの深さを予感して、いっせいに息を止める。 誰も動かない。空気が張り詰める。そして、五つの弦が、そっと、あのこの世ならぬ和音を鳴らし始める。あの瞬間、演奏する私たちは、まるで神聖な場所に足を踏み入れるような、厳かな気持ちになる。音楽は、鳴っている音だけでなく、その音が生まれる前の、期待に満ちた沈黙の中にこそ宿るのだ。
200年近く後の私たちが、なぜまだこれを聴くのか
1828年に書かれた曲だ。200年近く前になる。
死を目前にした若者が、報われないまま、それでも書かずにはいられなかった音楽。自分では聴くことのできなかった、最後の傑作。そんな曲が、なぜ今も、これほど多くの人の心を、深いところで揺さぶり続けているのか。私は、こう思っている。
この曲が差し出しているのは、 終わりがあるからこそ、今この瞬間が美しい という、静かな真実だからだ。
思い出してほしい。この曲の美しさは、いつも切なさと隣り合わせだった。光には影が差し、喜びの踊りには翳りが宿り、最後の音にさえ、小さな痛みが残った。シューベルトは、幸せをただ幸せとして描かなかった。その幸せが、いつか失われるものだと知っていたからこそ、彼は、この一瞬をこれほど深く、これほど愛おしく描くことができた。
私たちの人生も、同じだ。すべてには終わりがある。大切な時間も、愛する人との日々も、いつかは過ぎ去っていく。その事実は、恐ろしくもあり、悲しくもある。だが、終わりがあるからこそ、今ここにある時間は、かけがえなく美しい。永遠に続くなら、私たちはきっと、その尊さに気づけない。
なぜ今この音楽が必要なのか。それは、慌ただしく先を急ぐばかりの日々の中で、「終わりがあるからこそ、今この瞬間を慈しみなさい」と、これほど優しく、これほど美しく語りかけてくれる音楽が、そう多くないからだ。
あなた自身の耳で
さて、聴き方の話をしたい。だがその前に、これだけは言っておきたい。
好きに聴いていい。 難しく考える必要は、まったくない。
50分は長い。全部を集中して聴き通す必要はないし、途中で意識がふっと遠のいてもいい。この曲は、あなたを急かさない。むしろ、静かな夜に、灯りを落として、ただそのあたたかな響きに身を委ねる――そんな聴き方が、いちばん似合う音楽だ。
そのうえで、もし手がかりが欲しければ、三つだけ。
ひとつめ。まず、この曲の「あたたかさ」を感じてほしい。二本のチェロが生み出す、ふくよかで深い響き。まるで誰かにそっと抱きしめられているような、あの包容力。それがこの曲の、いちばんの贈り物だ。
ふたつめ。第二楽章の、時が止まったような静けさに、ただ浸ってほしい。何も考えなくていい。あの天上の平安と、途中で訪れる激しい嵐の落差を、心で味わってほしい。多くの人が「人生でいちばん美しい音楽」と呼ぶ理由が、きっとわかるはずだ。
みっつめ。いちばん最後の音に、耳を澄ませてほしい。晴れやかに終わるようでいて、かすかに残る切なさ。あの余韻まで感じ取れたら、シューベルトが遺したかった想いに、そっと触れたことになる。
そして、もしこの別れの歌が心に残ったなら。
次は、同じシューベルトの歌曲集《冬の旅》 を聴いてみてほしい。失恋した若者が、雪の中をひとり彷徨う姿を描いた、切なくも美しい歌の連なりだ。この五重奏曲と同じ、光と影のたゆたいが、言葉とともに味わえる。
もう少し親しみやすいものがよければ、ピアノ五重奏曲 《ます》 を。跳ねる魚のように、明るく愛らしい曲で、シューベルトのもう一つの、屈託のない笑顔に出会える。
急がなくていい。今日でなくてもいい。
ただ、いつか幸せな時間のただ中で、ふとその終わりを思って胸が切なくなる日が来たら。そのときは、この曲のことを思い出してほしい。終わりがあるからこそ、今このときは美しいのだと――シューベルトは、200年近く前から、この上なく優しい響きで、そう語りかけている。