真夜中、骸骨たちが踊り出す
サン=サーンス《交響詩「死の舞踏」》作品40

こわいのに、なぜか目が離せない
こわいもの見たさ、という言葉がある。
背筋がぞくりとするのに、なぜか目が離せない。怪談を聞けば眠れなくなるとわかっているのに、つい耳を傾けてしまう。お化け屋敷は怖いのに、また入りたくなる。人間の心には、恐ろしいものに惹きつけられる、不思議な引力が備わっているらしい。
その引力の正体は何だろう、と私はときどき考える。たぶん私たちは、安全な場所から「死」や「闇」をのぞき見ることに、奇妙な快感を覚えるのだ。日頃は目をそらしている、避けられない終わり。それを、物語や音楽という安全な檻ごしに眺めるとき、恐怖は、どこかぞくぞくする楽しさに変わる。
私がこの曲を初めて聴いたとき、まさにその「こわいのに楽しい」感覚に、どっぷり浸かってしまった。
ハープが、ぽーん、ぽーんと、同じ音を刻む。ひとつ、ふたつ…… 十二回。真夜中を告げる、時計の鐘だ。 すると、どこからか一挺のヴァイオリンが、妙に調子の狂った、不気味な音で鳴り出す。それを合図に、かたかた、かたかたと、乾いた音が響き始める。骨だ。骸骨たちが、墓から起き出して、踊り始めたのだ。
背筋が寒くなる。なのに、口元がにやりとしてしまう。なんて楽しくて、なんて悪趣味で、なんて洒落た音楽だろう、と。
これは、そういう音楽だ。真夜中の墓場で繰り広げられる、死者たちの、ぞっとするほど愉快な舞踏会である。
音で絵を描く、フランスの魔術師
カミーユ・サン=サーンス。1835年にフランスのパリで生まれ、1921年に亡くなった作曲家だ。幼い頃から「モーツァルトの再来」と呼ばれた神童で、音楽のみならず天文学や数学にも通じた、万能の知性の持ち主だった。
そんな彼が持っていた、とりわけ輝かしい才能――それが、 音だけで情景を描き出す 力だ。彼はオーケストラを絵の具のように操り、目に見えない光景を、聴き手の頭の中にありありと立ち上げてみせた。この「死の舞踏」は、その才能が最も痛快な形で発揮された一曲である。
この曲には、実は元になった詩がある。詩人アンリ・カザリスが書いた、死神が真夜中にヴァイオリンを弾き、死者たちを踊らせる、という詩だ。サン=サーンスははじめこれを歌曲として作曲し、のちにオーケストラだけの作品に作り変えた。1874年のことで、翌年パリで初演されている。
演奏者として言うと、サン=サーンスの音には、はっきりした癖がある。 緻密でありながら、茶目っ気を忘れない ことだ。彼の音楽は、いつも隅々まで計算され尽くしている。それでいて、どこか人を食ったようなユーモアが漂う。この「死の舞踏」でも、死という重々しいテーマを扱いながら、ちっとも深刻ぶらない。むしろ、死をからかい、骸骨たちと一緒になって面白がっているようですらある。この軽やかさ、この不謹慎すれすれの洒落っ気こそ、サン=サーンスという人の魅力だと私は思っている。
一夜の舞踏会を巡る、いくつかの場面
まず断っておくと、この曲に楽章の区切りはない。7分ほどの長さを、ひと息に演奏する。だがその中には、真夜中から夜明けまでの、いくつもの場面が詰まっている。
私はこれを、死者たちの舞踏会の、開演から幕切れまでの物語として案内したい。
真夜中の鐘
ハープが、同じ音を十二回、静かに打ち鳴らす。深夜零時。一日でいちばん、この世とあの世の境が薄くなる時刻だ。
しんと静まりかえった墓場に、その鐘だけが響く。あたりには誰もいない――はずだった。この十二の音は、これから始まる異界の宴への、招待状なのだ。
死神の、調子外れのヴァイオリン
鐘が鳴り終わると、一挺のヴァイオリンが、ひとり音を鳴らし始める。だがその音は、どこか気味が悪い。普通のヴァイオリンとは違う、不安定で、ざらついた響き。
これは、死神が奏でるヴァイオリンだ。実はこの独奏ヴァイオリンは、わざと弦の一本を通常と違う音に調え直して弾かれる。そのせいで、本来なら濁って聞こえる不吉な響き――中世の人々が「悪魔の音程」と恐れた響き――が生まれる。死神が、墓石に腰かけて、これから始まる舞踏会のために、自分の楽器を調律している。そんな場面だ。ぞっとするほど、雰囲気が出ている。
骸骨たちの、踊り
死神のヴァイオリンに誘われて、いよいよ死者たちが踊り出す。ここで聞こえてくるのが、 木琴 (シロフォン) の、かたかたという乾いた音 だ。
この音は、骸骨たちの骨がぶつかり合う音を表している。当時としては珍しかった木琴を、サン=サーンスはこの「骨の音」のためにあえて起用した。かちゃかちゃと軽やかに鳴る木の音は、確かに、乾いた骨が触れ合う音そのものに聞こえる。この着想の見事さには、いつも唸らされる。
踊りはワルツのリズムに乗って、次第に熱を帯びていく。ひとり、またひとりと踊り手が増え、墓場全体が、奇妙で陽気なダンスホールへと変わっていく。生きていた頃は王も乞食も関係ない。死んでしまえば、みな同じ骸骨として、輪になって踊る。この平等な滑稽さが、なんとも言えずおかしい。
熱狂と、古い聖歌の影
踊りは、どんどん激しくなる。旋律が絡み合い、渦を巻き、墓場は狂乱の宴と化す。
その渦の中に、ふと、古い聖歌の旋律が紛れ込む。「怒りの日」と呼ばれる、死者を悼むための、中世から伝わる荘厳な旋律だ。だがサン=サーンスは、この神聖な聖歌を、あえて陽気なワルツに作り変えて登場させる。厳かなはずの死の聖歌が、骸骨たちの浮かれ騒ぎの伴奏になっている。この不謹慎な悪ふざけこそ、この曲のいちばんの毒であり、いちばんの魅力だ。踊りは頂点へと駆け上がっていく。
夜明けの鶏と、宴の終わり
狂宴が最高潮に達したその時――オーボエが、コケコッコーと、鶏の鳴き声を奏でる。
夜明けだ。朝を告げる鶏の声とともに、東の空が白み始める。骸骨たちは、はっと我に返り、慌てて墓へと逃げ帰っていく。あれほど熱狂していた宴が、潮が引くように、あっけなく静まっていく。
最後に、死神のヴァイオリンが、名残惜しそうに、少し寂しげな調べを奏でる。楽しい夜は終わった。また来年の今夜まで、しばしのお別れ。そして墓場は、何事もなかったかのように、朝の静けさに包まれる。
舞台裏の沈黙
この曲を演奏することは、オーケストラにとって、ちょっとした仮装パーティのような楽しさがある。だが、その裏では、奏者たちが繊細な技を凝らしている。
まず、独奏ヴァイオリンを担うコンサートマスター。彼または彼女は、本番のために、自分の楽器の弦の一本を、いつもと違う音へと調え直さなければならない。舞台上で、あの不吉な響きを生み出すための、密かな仕込みだ。慣れ親しんだ楽器を、あえて「狂わせて」弾く。その違和感を抱えながら、死神の妖しさを演じきる。演奏者にとっては、なかなか神経を使う役どころだ。
そして、木琴の奏者。骸骨の骨の音を担う、この曲の隠れた主役だ。出番は多くないが、そのぶん一音一音が完全に露出している。あの乾いた音を、寸分の狂いもないリズムで、軽やかに刻まなければならない。少しでももたつけば、骸骨たちの踊りは締まりを失う。奏者は、自分の出番を今か今かと待ち構え、息を詰めてばちを構える。
だが、私がいちばん好きなのは、冒頭のハープの十二の鐘だ。
曲が始まる前、ホールは静まりかえっている。そして、ハープがたったひとつの音を、ぽーん、と打つ。それを十二回。 その一音一音のあいだの静けさの中で、客席も奏者も、みなが息をひそめて数を数えている。 一つ、二つ、と鐘が進むにつれ、真夜中が近づき、異界の扉がゆっくりと開いていく。音楽は、鳴っている音だけでなく、その鐘と鐘のあいだの、期待に満ちた沈黙の中にこそ宿る。あの静けさは、何度味わっても、ぞくぞくする。
150年後の私たちが、なぜまだこれを聴くのか
1874年に書かれた曲だ。150年ほど前になる。
死者が墓から起き出して踊る、という、考えようによっては悪趣味きわまりない音楽。そんな曲が、なぜ今も世界中で愛され、ハロウィンの季節になると必ずどこかで演奏されるのか。私は、こう思っている。
この曲が教えてくれるのは、 死を、笑い飛ばす という、とびきり痛快な生き方だからだ。
死は、誰にとっても恐ろしいものだ。できれば考えたくない。目をそらしていたい。だが、避けることは誰にもできない。いつか必ず、私たちのもとにもやってくる。
サン=サーンスは、その避けられない死を、深刻に嘆いてみせなかった。かわりに、骸骨たちを陽気に踊らせ、厳かな聖歌をワルツに変えて、死そのものをからかってみせた。怖いものを、正面から怖がるのではなく、いっそ笑い飛ばしてしまう。この態度には、ある種の強さがある。恐怖に呑まれるのではなく、恐怖と一緒に踊ってしまう強さだ。
思えば、この「死者たちの舞踏」というイメージには、もう一つ大切な意味がある。踊る骸骨たちには、身分の差がない。生前が王だろうと貧しい者だろうと、死んでしまえばみな同じ骨になり、同じ輪の中で踊る。死は、あらゆる者を平等にする。その事実は、恐ろしくもあり、どこか慰めでもある。
なぜ今この音楽が必要なのか。それは、いつか必ず訪れる終わりに怯えるばかりの私たちに、「そんなに深刻にならず、いっそ一緒に踊ってしまえばいい」と、粋に笑いかけてくれる音楽が、そう多くないからだ。
あなた自身の耳で
さて、聴き方の話をしたい。だがその前に、これだけは言っておきたい。
好きに聴いていい。 難しく考える必要は、まったくない。
7分ほどの、短い曲だ。しかも物語がはっきりしているから、初めての人でもすんなり楽しめる。真夜中の墓場で骸骨が踊り、夜明けとともに逃げ帰る――その情景を頭に思い描きながら聴けば、音楽が語りかけてくるものが、自然と伝わってくるはずだ。
そのうえで、もし手がかりが欲しければ、三つだけ。
ひとつめ。冒頭のハープの音を、数えてみてほしい。 ぽーん、ぽーんと十二回。真夜中の鐘だ。その一音ごとに、異界の扉が開いていくのを想像すると、ぞくぞくする幕開けが味わえる。
ふたつめ。かたかたと鳴る「木琴」の音に、耳を澄ませてほしい。 あれは骸骨の骨の音だ。この乾いた音が聞こえてきたら、もう死者たちの舞踏会は始まっている。その悪趣味な楽しさを、存分に味わってほしい。
みっつめ。最後の「鶏の鳴き声」を、聴き逃さないでほしい。 オーボエがコケコッコーと鳴いた瞬間、夜が明け、宴は終わる。あの、祭りが潮のように引いていく寂しさまで感じ取れたら、この曲をまるごと味わい尽くしたことになる。
そして、もしこの真夜中の舞踏会が気に入ったなら。
次は、同じサン=サーンスの《動物の謝肉祭》 を聴いてみてほしい。さまざまな動物を音で描いた、ユーモアたっぷりの組曲だ。実はこの中の一曲には、「死の舞踏」の骸骨の旋律が、こっそり顔を出す場面もある。作曲者の茶目っ気を探しながら聴くのも一興だ。中でも《白鳥》の美しい旋律は、きっと心に残るだろう。
もう少し壮大なものに触れたくなったら、 《交響曲第3番「オルガン付き」》 を。終盤、オルガンの大音響とともに訪れる、あの圧倒的な光の場面は、この「死の舞踏」とはまるで別世界の感動を運んでくれる。
急がなくていい。今日でなくてもいい。
ただ、いつか避けられない終わりのことを思って、少し心が重くなる夜が来たら。そのときは、この陽気な骸骨たちのことを思い出してほしい。死は怖いけれど、いっそ一緒に踊ってしまえばいい――サン=サーンスは、150年も前から、そう洒落たウインクを送り続けている。