夜明けと、答えの出ない問い

リヒャルト・シュトラウス《交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」》作品30

夜明けと、答えの出ない問い ― リヒャルト・シュトラウス《交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」》作品30
本作はAIの手によって紡がれたフィクションです。物語として、自由な想像とともにお楽しみいただけましたら幸いです。
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あなたも、きっと聴いたことがある

クラシックなんてほとんど聴かない、という人でも、たぶんこの音楽だけは知っている。

低く、地の底から響いてくるような持続音。その上に、トランペットがゆっくりと、ド、ソ、ドと三つの音を吹き上げる。それに応えて、ティンパニがドン、ドンと打ち鳴らされ、音楽はぐんぐん高まっていく。そしてついに、オーケストラ全体が、まばゆい光の爆発のような、壮大な響きへと到達する。

「ああ、これか」と思った人も多いはずだ。映画で、テレビ番組で、コマーシャルで、何度も使われてきた、あの音楽。宇宙を舞台にしたある名作映画に使われたことで、世界中の人が「壮大なものが始まる合図」として、この響きを記憶に刻んだ。

私がこの曲の全体を初めて通して聴いたのは、大学生の頃だった。あの有名な冒頭のあとに、まだ30分も音楽が続くと知って、正直、驚いた。そしてその30分は、私が想像していたような、ただ壮大なだけの音楽ではなかった。

それは、夜明けの光を浴びて、ひとりの人間が「私とは何か」「なぜここにいるのか」と問い始め、悩み、あがき、踊り、そして最後まで答えにたどり着けないまま夜を迎える――そんな、壮大で切ない、魂の彷徨の物語だったのだ。

これは、そういう音楽だ。誰もが一度は見上げたことのある夜明けの空。その下で、人間が抱く、いちばん大きくて、いちばん答えの出ない問いを、音にした作品である。

哲学を、音で描こうとした男

リヒャルト・シュトラウス。1864年にドイツのミュンヘンで生まれ、1949年に亡くなった作曲家だ。オーケストラを自在に操り、目に見えない情景や物語を音で描き出す「交響詩」の名手だった。

だが、この「ツァラトゥストラはかく語りき」で彼が挑んだのは、風景でも物語でもない。 哲学そのもの だった。

この曲は、哲学者ニーチェの同じ名前の著作から着想を得ている。人間はいまの自分を乗り越えて、より高い存在へと成長できるのか――そんな壮大な問いを投げかけた、難解で有名な書物だ。シュトラウスは、その言葉で書かれた思想を、あえて言葉のない音楽に置き換えようとした。ただし彼は慎重に、「ニーチェに 自由に 基づいて」と断り書きを添えている。哲学書を音で説明するのではなく、その思想から受け取った感覚を、自分なりに音にしたのだ。この途方もない野心こそ、シュトラウスという人の面白さだ。

演奏者として言うと、シュトラウスの音には、はっきりした癖がある。 とてつもなく大きな音と、極限まで繊細な音の、両方を求める ことだ。冒頭のような、天地を揺るがす大音響を書くかと思えば、消え入るように儚い、糸のような弱音も書く。オーケストラは、そのめまぐるしい振れ幅に、全神経で応えなければならない。彼の音楽を演奏することは、いつも肉体的にも精神的にも、限界への挑戦になる。

九つの場面を巡る、魂の一日

まず断っておくと、この曲に楽章の切れ目はない。30分あまりを、ひと息に演奏する。だがその中は、九つの場面に分かれていて、それぞれにニーチェの著作の章から取られた名前がついている。

私はこれを、夜明けから真夜中まで、ひとりの魂がたどる、長い一日の旅として案内したい。

夜明け

あの有名な冒頭。低い持続音の上に、トランペットが三つの音を吹き上げ、光が満ちていく。これは「日の出」だ。

暗闇の中から、太陽がゆっくりと昇ってくる。世界が生まれ、光が大地を照らし出す。この、ド・ソ・ドという単純な三つの音は、自然そのものを、宇宙の根源的な問いを表す旋律として、このあと曲のあちこちで何度も戻ってくる。壮大な幕開けだ。目覚めた魂が、生まれたばかりの世界を見渡している。

信じる者たちと、大いなる憧れ

夜明けのあと、音楽は静かに変わる。ここでは「背後世界を説く者について」という場面が訪れる。オルガンが荘厳に鳴り、まるで教会の祈りのような、敬虔な響きが広がる。人間が、目に見えない何か――神や、あの世――にすがり、答えを求める姿だ。

だがそれに続く「大いなる憧れについて」で、魂はもっと切実に、何かを求めて手を伸ばし始める。まだ見ぬ高みへの、抑えきれない憧れ。祈りだけでは満たされない、もっと激しい渇望が、音楽の中で頭をもたげてくる。

喜びと情熱、そして墓場の歌

憧れは、やがて激しい情熱へと燃え上がる。「喜びと情熱について」の場面では、音楽が熱を帯び、うねり、渦を巻く。生きることの喜び、抑えがたい欲望、燃えるような感情――人間のいちばん熱い部分が、あふれ出す。

だが、その激情の果てに訪れるのは、「墓場の歌」だ。燃え上がった情熱は、静まり、沈み、喪失の色を帯びる。喜びのあとには、必ず別れが、終わりがやってくる。熱く生きた魂が、初めて死の影に触れる、切ない場面だ。

学問という名の、フーガ

悲しみを抜けた魂は、次に「学問について」たどり着く。ここで音楽は、ぐっと理屈っぽくなる。低い弦楽器が、もったりと、慎重に、複雑な旋律を組み上げ始める。フーガと呼ばれる、緻密で理知的な音楽だ。

これは、人間が感情ではなく「知性」で答えを見つけようとする姿を描いている。あらゆる音を使って構築された、この込み入った音楽は、まるで難しい方程式を解こうと、机にかじりついている学者のようだ。だが、理屈をどれだけ積み上げても、あの大きな問いへの答えは、なかなか見つからない。

快復する者と、踊りの歌

知性の袋小路から、魂はやがて立ち直る。「病から癒える者」の場面だ。もがき苦しんだ末に、ふっと憑き物が落ちるように、生きる力が戻ってくる。

そして訪れるのが、この曲でいちばん心がほどける瞬間、「踊りの歌」だ。独奏ヴァイオリンが、優雅なワルツを奏で出す。理屈も、苦悩も、いったん忘れて、魂はただ軽やかに踊る。ウィーンの舞踏会のような、甘く華やかな旋律。あれほど重い問いを抱えていた魂が、ここでは我を忘れて、生の喜びに身を委ねている。私はこの場面が、この曲でいちばん好きだ。

答えの出ない、真夜中

だが、踊りは永遠には続かない。やがて真夜中の鐘が、ゴーン、ゴーンと、十二回鳴り渡る。「夜を彷徨う者の歌」――一日の終わりだ。

そして、この曲の結末は、実に不思議だ。ふつう音楽は、最後にすっきりと着地して終わる。だがシュトラウスは、そうしなかった。高いところでは澄んだ和音が響いているのに、その足もとで、低い弦楽器が、まったく違う音を、ぽつり、ぽつりとつま弾く。 二つの世界が、半音だけずれたまま、最後まで溶け合わない。

これは、偶然ではない。高い音は「人間の魂」を、低い音は「自然・宇宙」を表していると言われる。人間がどれだけ問い、憧れ、あがいても、宇宙の大きな謎とは、決して一つに溶け合えない。答えは、出ないままなのだ。音楽は、その解けない謎を宙に浮かべたまま、静かに闇へと消えていく。

舞台裏の沈黙

この曲を演奏することは、オーケストラにとって、まさに総力戦だ。とりわけ、あの冒頭が難しい。

曲が始まる前、ホールは完全な静寂に包まれる。そこへまず、オルガンとコントラバスが、低い音を、ほとんど聞こえるか聞こえないかの弱さで鳴らし始める。耳で聴くというより、体でその振動を感じる、という種類の音だ。この「無」に等しい響きから、あの壮大な日の出を立ち上げていく。

そして、トランペット。あのド・ソ・ドを吹く奏者にとって、これほど怖い開幕はない。静まりかえったホールで、完全に露出した状態で、一点の曇りもなく、あの三つの音を吹ききらなければならない。少しでも音が揺れれば、世界中が知っているあの荘厳な夜明けは、台無しになる。奏者は、この一瞬のために、全神経を研ぎ澄ませて舞台に上がる。

だが、私が演奏していて本当に張り詰めるのは、実は最後の場面だ。あの、答えの出ない結末。

真夜中の鐘が鳴り終わり、高い和音が消え残る中で、低い弦楽器が、最後の低い音を、ぽつり、とつま弾く。そのあとに訪れる、長い長い沈黙。 その静けさの中で、奏者も、指揮者も、客席の全員が、息を止めて、宙に浮かんだままの「問い」を受け止めている。 答えが与えられない、あの居心地の悪さと、深さ。指揮者がゆっくりと腕を下ろすまで、誰も動けない。音楽は、鳴っている音だけでなく、この答えの出ない沈黙の中にこそ宿る。あの終わりを経験するたび、私はしばらく言葉を失う。

130年後の私たちが、なぜまだこれを聴くのか

1896年に書かれた曲だ。130年ほど前になる。

難解な哲学書を音楽にしようという、無謀とも言える試み。しかも、答えを出さずに終わる曲。とっつきにくそうに聞こえるかもしれない。

それでも、この曲が今なお世界中で愛され、演奏され続けている理由を、私はこう思っている。

この曲が差し出しているのは、 答えの出ない問いと、どう生きるか という、きわめて現代的なテーマだからだ。

思い出してほしい。この曲の主人公である魂は、神にすがり、憧れに手を伸ばし、情熱に燃え、知性を尽くし、そして踊った。あらゆる方法で、「私とは何か」という問いの答えを探した。だが、最後まで答えは出なかった。宇宙の謎とは、決して溶け合えなかった。

これは、敗北の物語だろうか。私はそうは思わない。むしろ、答えが出なくても、人は問い続け、憧れ、情熱を燃やし、踊ることができる――そのことを、この曲は肯定しているのだ。

私たちも、生きていく中で、答えの出ない問いをいくつも抱える。なぜ生きるのか。何のために働くのか。この選択は正しかったのか。それらに、明快な答えなど、たいてい与えられない。だが、答えが出ないからといって、生きるのをやめる必要はない。問いを抱えたまま、それでも情熱を燃やし、ときに踊りながら、生きていけばいい。

なぜ今この音楽が必要なのか。それは、すぐに答えや正解を求めたがる時代に、「答えが出なくても、それでいい」と、これほど壮大に、これほど深く肯定してくれる音楽が、そう多くないからだ。

あなた自身の耳で

さて、聴き方の話をしたい。だがその前に、これだけは言っておきたい。

好きに聴いていい。 哲学を理解する必要なんて、まったくない。

ニーチェの本を読んでいなくても、この曲は十分に楽しめる。むしろ、細かい意味を追わずに、音の大きなうねり――光の爆発、燃える情熱、優雅なワルツ、そして答えの出ない静けさ――に、ただ身を委ねてほしい。あなたの心が、勝手に何かを感じ取ってくれる。

そのうえで、もし手がかりが欲しければ、三つだけ。

ひとつめ。冒頭の「日の出」は、できれば音量を少し上げて、体ごと浴びてほしい。低い持続音から光が満ちていく、あの壮大な高まり。有名すぎるこの場面を、改めて全身で味わうと、新鮮な感動があるはずだ。

ふたつめ。中盤の「踊りの歌」で聞こえてくる、独奏ヴァイオリンのワルツに耳を澄ませてほしい。あれほど重い問いを抱えた曲の中に、ふっと現れる、甘く優雅な踊り。この意外なやわらかさが、私はたまらなく好きだ。

みっつめ。そして、最後の終わり方に、ぜひ注目してほしい。すっきり終わらない、あの奇妙な結末。「あれ、これで終わり?」と感じたら、それで正解だ。その居心地の悪さこそ、シュトラウスが仕掛けた「答えの出ない問い」なのだから。

そして、もしこの壮大な問いが心に残ったなら。

次は、同じシュトラウスの 《交響詩「英雄の生涯」》 を聴いてみてほしい。こちらは、ひとりの英雄――実は作曲者自身――の一生を描いた、これまた壮大な音の叙事詩だ。「ツァラトゥストラ」の哲学的な問いとはまた違う、人間くさいドラマが味わえる。

もう少し軽やかで楽しいものに触れたくなったら、 《交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」》 を。いたずら者の冒険を描いた、シュトラウスのユーモアが弾ける一曲だ。

急がなくていい。今日でなくてもいい。

ただ、いつか答えの出ない問いを抱えて、少し立ち止まってしまう日が来たら。そのときは、この曲のことを思い出してほしい。答えが出なくても、人は問い続け、踊りながら生きていけるのだと――シュトラウスは、130年も前から、あの夜明けの光とともに、そう語りかけている。

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