芸術に生き、愛に生きて
プッチーニ 歌劇《トスカ》

選べないものを、選ばされる夜
人生には、選びたくない二択を突きつけられる瞬間がある。
どちらを選んでも、何かが決定的に壊れる。逃げ道はない。時間だけが刻々と過ぎていく。胸の中で、理性と感情が、誇りと恐怖が、はげしく殴り合う。「どうすればいい」と何度自分に問うても、答えは返ってこない。ただ、決めなければならないという事実だけが、重くのしかかる。
そんな夜を、あなたも一度は過ごしたことがあるのではないか。誰にも相談できず、正解などどこにもなく、それでも朝までに決めなければならなかった、あの夜を。
私がこのオペラを初めて劇場で観たとき、まさにそういう夜のただ中に、いきなり放り込まれた気がした。
第二幕。一人の女が、恐ろしい男から、むごい取引を持ちかけられる。愛する人の命を救いたければ、自分の身を差し出せ、と。彼女は追い詰められ、逃げ場を失い、そして――舞台の上ですべての動きが止まり、彼女は天を仰いで、たったひとり、神に問いかける。「私は芸術に生き、愛に生きてきた。なぜ、こんな仕打ちを」と。
その歌声を聴いた瞬間、私は自分の呼吸が止まっているのに気づいた。客席の千人が、みな同じように息を止めていた。劇場が、丸ごと祈りに変わっていた。
これは、そういう音楽だ。人間が極限まで追い詰められたとき、その胸から何がこぼれ出るのかを、これ以上ないほど生々しく描いた物語である。
血の通った人間を描いた、旋律の天才
ジャコモ・プッチーニ。1858年にイタリアのルッカで生まれ、1924年に亡くなった、オペラの作曲家だ。代々教会音楽家を輩出した家系に生まれ、幼い頃から音楽に囲まれて育った。
彼が生きたのは、19世紀の終わりから20世紀のはじめ。オペラの世界では「 ヴェリズモ (真実主義) 」という潮流が起こっていた。神話や王侯貴族ではなく、ごく普通の、生身の人間の愛と嫉妬と暴力を、赤裸々に舞台に乗せようという動きだ。プッチーニは、その最高の書き手だった。
《トスカ》が初演されたのは1900年、ローマのコスタンツィ劇場でのこと。原作はフランスの劇作家サルドゥの戯曲で、物語の舞台は1800年6月のローマ。実在の教会や城が、そのまま舞台になっている。
演奏者として言うと、プッチーニの音には、はっきりした癖がある。 とにかく、旋律で心臓を直接つかみにくる のだ。技巧をひけらかすより、ひと息で歌いきれる、長く、切なく、美しい旋律を書く。しかもそれを、いちばん感情が高ぶった瞬間に、惜しみなく差し出す。聴いている側は、抵抗する間もなく涙腺をゆるめられてしまう。ずるい、と思うほどに巧い。
そしてもう一つ。彼は 音で「場面」を描く 達人だ。教会の荘厳な響き、夜明けの静けさ、迫り来る恐怖。オーケストラが、まるで映画のカメラのように情景を映し出す。実際、プッチーニの音楽は後の映画音楽に計り知れない影響を与えた。彼の音を聴いていると、目を閉じていても、その場の空気の匂いまで立ちのぼってくる。
三幕を駆け抜ける、一昼夜の悲劇
このオペラは三つの幕でできている。物語が始まってから終わるまで、たった一昼夜。ローマのある一日の午後から、翌朝の夜明けまでの出来事だ。
私はこれを、逃れられない運命に絡めとられていく、三人の男女の物語として案内したい。歌手のトスカ、その恋人で画家のカヴァラドッシ、そして二人を破滅させる警視総監スカルピア。この三人が織りなす、一昼夜の悲劇である。
第一幕: 聖堂に忍び寄る、黒い影
幕が上がる前に、まず 三つの重々しい和音 が、いきなり叩きつけられる。
ジャン、ジャン、ジャーン。禍々しく、圧し掛かるような響き。これは悪役スカルピアを表す音楽だ。物語がまだ始まってもいないうちから、その影が劇場全体を覆う。「これから恐ろしいことが起こる」と、音が予告している。
舞台は、ローマの教会。画家カヴァラドッシが絵を描いている。そこへ、彼の恋人である歌手トスカがやってくる。二人は愛を語り合うのだが、トスカは嫉妬深い。夫の描く聖母の絵に別の女の面影を見て、やきもちを焼く。その様子は可愛らしく、微笑ましくさえある。まだこのときは、悲劇の気配など感じさせない。
だが幕切れで、空気が一変する。警視総監スカルピアが現れ、トスカの嫉妬を巧みに利用して、彼女を罠にかけようと企む。そして、荘厳な宗教行列と大合唱 (テ・デウム) が鳴り響く中、スカルピアは神を讃える聖歌に紛れて、トスカを我がものにしたいという醜い欲望を歌う。
聖なる音楽と、汚れた欲望が、同時に鳴る。 この場面のぞっとするような二重性は、何度観ても背筋が寒くなる。神の家の中で、悪魔が舌なめずりをしている。
第二幕: 逃げ場のない、取引の部屋
舞台はスカルピアの部屋。ここが、このオペラの心臓部だ。
スカルピアは、カヴァラドッシを捕らえ、隣室で拷問にかける。その苦痛の叫びが、壁越しにトスカの耳へ届く。恋人の悲鳴を聞かされながら、彼女は責め立てられる。そしてスカルピアは、あの残酷な取引を持ちかける。恋人の命が惜しければ、お前の体をよこせ、と。
追い詰められたトスカは、動きを止め、天を仰ぐ。そして歌うのが、名高い《 歌に生き、愛に生き (ヴィッシ・ダルテ) 》だ。「私は芸術に生き、愛に生きてきた。誰も傷つけず、ただ美しいものを求めて生きてきた。それなのに、なぜ神はこんな試練を与えるのか」――それは、祈りであり、抗議であり、魂の叫びだ。
ここでオペラは、いったん時間が止まる。物語が進むのをやめて、ひとりの女の心の底が、まるごと差し出される。私はこの瞬間を、嵐の目の中の、束の間の静寂のように感じる。周りではすべてが荒れ狂っているのに、その中心だけが、恐ろしいほど澄んでいる。
そして彼女は、決断する。取引に応じるふりをして、隙を突き、テーブルのナイフでスカルピアを刺し殺すのだ。震える手で、彼女は男の亡骸のかたわらに燭台を置き、十字架をのせる。復讐を遂げた女の、静かで恐ろしい幕切れ。
第三幕: 夜明けとともに、崩れ落ちる希望
最後の舞台は、夜明け前のサンタンジェロ城。カヴァラドッシが処刑を待っている。
遠くで羊飼いの少年が歌い、鐘が鳴る。夜が白んでいく、静かで美しい朝だ。その静けさの中で、カヴァラドッシは恋人との思い出を歌う。《 星は光りぬ (エ・ルーチェヴァン・レ・ステッレ) 》――「星が輝いていた、あの夜。もう二度と戻らない、あの幸せ」。死を前にした男が、失われた愛を思って泣く。この旋律の切なさは、聴く者の胸をまっすぐに刺し貫く。
そこへトスカが駆けつける。実は処刑は空砲の芝居で、撃たれたふりをすればいい――スカルピアからそう聞き出していた彼女は、喜びに満ちて恋人に告げる。二人は、これから始まる自由な人生を夢見て、愛を歌い合う。
だが、そこに待っていたのは、最も残酷な結末だった。処刑は、芝居ではなかった。銃声とともに、カヴァラドッシは本当に倒れ、二度と起き上がらない。スカルピアは、最後の最後まで二人を欺いていたのだ。
そして、スカルピアの死体が見つかり、追っ手がトスカに迫る。すべてを失った彼女は、城壁の上へ駆け上がり、身を投げる。愛も、希望も、命も――夜明けの光の中に、すべてが消えていく。
舞台裏の沈黙
このオペラをオーケストラピットの中から支えるとき、私がいつも感じるのは、 これは「間」の音楽だ ということだ。
派手な場面ももちろんある。だが本当に恐ろしいのは、音が止まる瞬間のほうだ。
第一幕冒頭の、あの三つの和音。あれを鳴らす前の、ほんの一瞬の静寂。客席のざわめきが引いていき、指揮者が棒を構える。その張り詰めた無音の中に、最初の一撃を叩き込む。ここで少しでも呼吸がずれれば、あの「悪の予告」の威圧感は生まれない。
そして、第二幕の《歌に生き、愛に生き》。あの歌が始まる直前。それまで荒れ狂っていた音楽が、ふっと途切れる。歌手がひとり、舞台の中央に取り残される。 その一瞬、オーケストラも、客席も、劇場にいる全員が息を止める。 次にこぼれ出る歌声を、みんなで待つ。あの沈黙の重さは、経験した者にしかわからない。音楽は、鳴っている音だけでなく、その音を全員が待ちわびる静けさの中にこそ宿る。
演奏者として神経を使うのは、歌手を「支える」バランスだ。オペラのオーケストラは、決して主役ではない。歌声を覆い隠してはならないが、かといって存在感を失ってもいけない。歌手が最も感情を高ぶらせる場面で、そっと下から支え、必要とあれば一歩引く。まるで、崖の上で踊る人の足元を、見えないように守り続けるように。歌手の呼吸を全身で感じ取りながら、音を寄り添わせていく。あの一体感が生まれたとき、劇場は本当にひとつの生き物になる。
第三幕の処刑の場面。銃声が鳴り、恋人が倒れ、トスカが真実を悟るまでの、あのわずかな間。あそこには、言葉も音楽もほとんどない。ただ、取り返しのつかないことが起きたという事実だけが、沈黙となって舞台を覆う。あの静けさを、私は今も忘れられない。
125年後の私たちが、なぜまだこれを聴くのか
1900年に初演された作品だ。125年ほど前になる。オペラの名作の中では、比較的新しいほうだ。
権力者の横暴、恋人の命を賭けた取引、裏切り、そして死。物語だけを取り出せば、ずいぶん血なまぐさく、救いのない話に見えるかもしれない。
それでも、このオペラが今なお世界中の劇場で上演され、人々の胸を打ち続けている理由を、私はこう思っている。
《トスカ》が描いているのは、 人間が極限で見せる、いちばん本当の姿 だからだ。
思い出してほしい。トスカは、恐ろしい取引を前にして、天を仰ぎ、こう歌った。「私は芸術に生き、愛に生きてきた」と。追い詰められた彼女がすがったのは、権力でも、策略でもなく、自分がこれまで大切にしてきた「美しいもの」と「愛」だった。人は、本当に窮地に立たされたとき、その人が何を信じて生きてきたかが、むき出しになる。
私たちも、大小の違いはあれ、同じような瞬間を生きている。逃げ場のない選択。守りたい人。理不尽な仕打ち。そして、それでも手放したくない、自分の中の大切なもの。トスカの物語は、120年以上前のローマの話でありながら、追い詰められたときに何にすがるかという、きわめて現代的な問いを突きつけてくる。
なぜ今この音楽が必要なのか。それは、うまく立ち回ることばかりが求められる時代に、「あなたは何に生き、何を愛して生きているのか」と、これほど真正面から問いかけてくる音楽が、そう多くないからだ。
あなた自身の耳で
さて、聴き方の話をしたい。だがその前に、これだけは言っておきたい。
好きに聴いていい。 イタリア語がわからなくても、まったく問題ない。
オペラと聞くと、身構えてしまう人が多い。物語を予習しなきゃ、言葉を理解しなきゃ、と。でも、その必要はない。プッチーニの音楽は、言葉がわからなくても、旋律だけで感情がまっすぐ伝わってくる。悲しい場面は悲しく、恐ろしい場面は恐ろしく、聴こえる。まずは、その音の流れに身を任せてほしい。
そのうえで、もし手がかりが欲しければ、三つだけ。
ひとつめ。冒頭の三つの和音を、覚えておいてほしい。 あれは悪役スカルピアの音だ。物語の要所で、この響きが不気味に戻ってくる。「あ、また彼の影だ」と気づけると、音楽が物語を語っていることが実感できる。
ふたつめ。第二幕の《歌に生き、愛に生き》は、意味を知って聴いてほしい。 「私は芸術に生き、愛に生きてきた」――追い詰められた女の、魂からの祈りだ。この歌のあいだだけ物語が止まることに気づけば、その特別さがより深く伝わる。
みっつめ。第三幕の《星は光りぬ》では、旋律の切なさに、ただ浸ってほしい。 死を前にした男が、失った幸せを思う歌。言葉を追わなくていい。あの旋律が持つ痛みを、そのまま受け止めてほしい。
そして、もしこの物語が心に残ったなら。
次は、同じプッチーニの《ラ・ボエーム》 を聴いてみてほしい。貧しい若者たちの、切なくも温かい恋の物語だ。《トスカ》の激しさとは対照的な、日常のささやかな愛おしさに満ちている。
もう少し華やかで、有名な旋律に触れたくなったら、 《トゥーランドット》 の中の《誰も寝てはならぬ》を。一度は必ず耳にしたことのある、あの壮麗な歌だ。プッチーニが最後にたどり着いた、輝かしい音の世界が広がっている。
急がなくていい。今日でなくてもいい。
ただ、いつか逃げ場のない選択を前にして、自分が本当に大切にしてきたものは何だったかと、立ち止まる日が来たら。そのときは、天を仰いで祈ったあの女の歌を、思い出してほしい。プッチーニは、125年も前から、「あなたは何に生きているのか」と、静かに問いかけ続けている。