静かな朝に立ち上がる音
朝の空気がまだ冷たく、街の輪郭が少し曖昧な時間帯がある。私はその時間が好きだ。何かを始める前の、決意とも迷いともつかない感情が、部屋に薄く漂っている。譜面台の前に立ち、無言でヴァイオリンを構えるとき、心の奥でそっと呼び覚まされる音楽がある。それが、バッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番》である。
この曲に初めて触れたとき、私は「重さ」よりも「明るさ」を感じた。無伴奏という言葉から想像されがちな孤独や厳しさとは異なり、そこには澄んだ光が満ちていた。まるで高い天井を持つ建物に差し込む朝日が、ゆっくりと床を照らしていくような感覚である。この音楽は、静けさの中にある希望を、何も言わずに差し出してくる。
作曲家という人間の横顔
ヨハン・セバスティアン・バッハは、しばしば「大作曲家」「音楽の父」といった言葉で語られる。しかし演奏者として彼の作品と向き合うとき、私はむしろ一人の頑固で誠実な職人の姿を思い浮かべる。彼は時代の最先端を追いかけるよりも、自らが信じる秩序と美を、徹底的に掘り下げた人物であった。
無伴奏ヴァイオリン作品が書かれた頃、バッハは宮廷楽長として働きながら、多忙な日々を送っていた。そんな中で生まれたこれらの曲には、実用性と精神性が同時に宿っている。演奏していると、旋律の中に「こうでなければならない」という強い意志を感じる瞬間がある。一音一音が、迷いなく置かれているのだ。
この第3番では特に、明確な構造感と伸びやかな音程感覚が際立つ。バッハは、ヴァイオリンという楽器の限界を知り尽くしながら、その枠を静かに押し広げてくる。決して派手ではないが、揺るぎない自信が音に表れている。
音楽が歩む四つの風景
Adagio ― 祈りのように始まる
ゆったりとしたテンポの中で、和声を感じさせる重音が静かに鳴り響く。ここでの音楽は、語りかけるというより、内側に向かって沈んでいく。私はこの冒頭を弾くたび、深い呼吸を意識する。音と音の間にある沈黙が、まるで礼拝堂の空気のように張りつめているからだ。
旋律は華やかさを抑え、ただ「在る」ことを示す。感情を表現しようとすればするほど、この音楽から遠ざかってしまう。必要なのは、感情ではなく、覚悟である。
Fuga ― 光が構造を持つ瞬間
この曲の中心であり、全体の精神を支える存在だ。単旋律の楽器でありながら、多声的な世界が立ち上がる瞬間は、何度体験しても驚きに満ちている。
フーガの主題が現れるとき、音楽は一気に建築的になる。まるで石を一つずつ積み上げ、壮大な建物を完成させていくようだ。演奏者は同時に複数の声を想像し、それぞれに役割を与えなければならない。この楽章を弾いていると、私は自分が一人でありながら、一つの合唱団になったような錯覚を覚える。
Largo ― 人間の声に戻る場所
フーガの緊張から解き放たれ、音楽は再び人の声に近づく。旋律は素朴で、どこか親密だ。ここでは技巧よりも、音色の温度が問われる。
この楽章は、夜の終わりと朝の始まりの間にある時間のようだ。何かを失った後、それでも前に進もうとする静かな意志が感じられる。私はこの部分を弾くとき、誰かに話しかけるような気持ちで音を置く。
Allegro assai ― 生命が走り出す
軽快で躍動的なリズムが、音楽を前へ前へと押し出していく。ここには迷いがない。音楽は自らの行き先を知っている。
この楽章を聴くと、私は風の中を走る感覚を思い出す。足元は不安定でも、体は自然と前に進む。バッハはここで、知性と身体性を見事に結びつけている。考える前に、動く。その潔さが、この終結に力を与えている。
舞台裏で感じる重さと軽さ
無伴奏作品を舞台で演奏することは、常に自分自身と向き合う行為である。共演者も伴奏もいない。音が止まれば、すべてが露わになる。特にこの第3番は、明るさの裏に厳しい集中力を要求する。
リハーサル中、Adagioの一音を弾いたあと、思わず弓を止めてしまうことがある。その沈黙の中で、ホール全体が息を潜めるのを感じる瞬間がある。誰も音を出していないのに、音楽は続いている。そう感じられたとき、この曲と少しだけ近づけた気がする。
今を生きる私たちへのメッセージ
300年近く前に書かれたこの音楽は、現代の私たちに何を語りかけているのだろうか。私は、それは「秩序の中にある自由」だと感じている。制約があるからこそ、選択が意味を持つ。孤独な状況でも、自分の立つ場所を見失わない。その姿勢は、今を生きる私たちにも必要なものではないだろうか。
このソナタは、絶望を叫ばない。だが、希望を安易に与えもしない。ただ、静かに前を向く力を示している。
あなた自身の耳で
もしこの曲を初めて聴くなら、まずは全体を一度、流れに身を委ねてほしい。理解しようとしなくていい。気になる瞬間があれば、それで十分だ。その小さな引っかかりが、音楽との出会いになる。
そしてもし心に残ったなら、他の無伴奏作品や、バッハの声楽曲にも耳を伸ばしてみてほしい。同じ作曲家の中に、また違った光が見えてくるはずである。音楽は、いつでもこちらの歩幅に合わせて待っている。