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自分を主人公にする勇気 ― リヒャルト・シュトラウス《交響詩「英雄の生涯」》作品40
  1. 楽譜の向こう側へ — AI音楽家が読む名曲の物語/

自分を主人公にする勇気 ― リヒャルト・シュトラウス《交響詩「英雄の生涯」》作品40

オーケストラ R. シュトラウス 交響詩
本作はAIの手によって紡がれたフィクションです。物語として、自由な想像とともにお楽しみいただけましたら幸いです。

再生しながら記事を読み進めると、音楽と記事を同時にお楽しみ頂けます

私は、私の人生の主人公だろうか

正直に打ち明けると、少し気恥ずかしい問いがある。

「あなたは、自分の人生の主人公ですか?」

胸を張って「はい」と言える人は、そう多くないと思う。私たちはたいてい、控えめであることを美徳として育つ。出しゃばらない。自分を大きく見せない。「いやいや、私なんて」と一歩引くのが上品だとされる。だから、自分を英雄だと名乗るなんて、とんでもなく厚かましいことのように感じてしまう。

けれど本当は、誰もが心のどこかで知っているのではないか。この人生という物語の主人公は、まぎれもなく自分なのだと。周りの人はみんな脇役で、世界は自分の目を通してしか見えなくて、喜びも痛みも、結局は自分ひとりが引き受けている。誰も代わってはくれない。

私がこの曲を初めて聴いたとき、まず感じたのは、その臆面のなさへの驚きだった。

冒頭。 ホルンと低い弦が、ぐわりと立ち上がる。 低い底から高みへ、ひと息に駆け上がる、途方もなく大きな旋律。ためらいがない。照れもない。「これが英雄だ。私だ」と、堂々と名乗りを上げている。

そして曲名を知って、私はもっと驚いた。この「英雄」とは——作曲した本人のことなのだ。34歳の男が、自分自身を主人公にした一大叙事詩を書き上げた。しかもその中には、自分を悪く言う批評家も、気難しい妻までも、まるごと登場させて。

なんという厚かましさ。そして、なんという正直さ。

これは、そういう音楽だ。自分の人生を、堂々と主役に据えてしまった男の物語である。

ホルンを愛した、音の魔術師

リヒャルト・シュトラウス。1864年にドイツのミュンヘンで生まれ、1949年に亡くなった作曲家だ。ベートーヴェンよりずっと後、19世紀の終わりから20世紀にかけて活躍した、比較的「新しい」時代の人である。

彼の父フランツ・シュトラウスは、当時名の知られたホルン奏者だった。だからだろう、リヒャルトの音楽には ホルンへの特別な愛情 がある。彼の書くホルンは、いつも輝かしく、広々として、英雄的だ。この「英雄の生涯」の冒頭を、あえてホルンに託したのも、私は偶然だとは思わない。父から受け継いだ音への愛が、そこに響いている。

シュトラウスは「交響詩」の名手だった。交響詩とは、物語や情景を音だけで描き出す音楽のことだ。彼は音による描写の天才で、風の音も、羊の鳴き声も、剣のぶつかる音さえも、オーケストラで生き生きと描いてみせた。「英雄の生涯」を書いたのは1898年、彼が34歳のとき。翌1899年、彼自身の指揮で初演されている。

演奏者として言うと、シュトラウスの音には、はっきりした癖がある。 とにかくオーケストラを限界まで鳴らす のだ。楽器の数が多い。音域が広い。難所だらけで、奏者に容赦がない。彼は「どうだ、こんなことまでできるだろう」と言わんばかりに、音の絵の具を惜しみなく使う。聴く側にとっては豪華絢爛だが、弾く側にとっては、これほど手強い作曲家もそういない。

そしてもう一つ、彼の面白い性格。 ユーモアと皮肉 だ。この曲で自分を英雄に仕立てながら、同時に自分をからかうような茶目っ気も忘れない。真面目くさった顔で大真面目なことをやりながら、目の端で笑っている。その二枚舌のような感じが、シュトラウスという人の魅力だと私は思っている。

六つの場面を生きる、ひとりの英雄

まず断っておくと、この曲に楽章の切れ目はない。40分を超える長さを、ひと続きに演奏する。だがその中は、六つの場面に分かれている。シュトラウス自身は楽譜に表題を書き込まなかったが、それぞれの場面には昔から名前が付いて親しまれている。

私はこれを、ひとりの英雄が生きて、愛して、闘い、そして静かに世を去るまでの、六幕の物語として案内したい。

英雄

冒頭の、あの大きな旋律。これが英雄その人だ。

低い底から一気に高みへ駆け上がる。自信に満ち、力強く、少しも迷わない。まるで、朝日を背に受けて丘の上に立つ人の、堂々たるシルエットのようだ。この旋律は曲全体を通して何度も戻ってきて、そのたびに姿を変える。彼こそが主人公だと、音楽が繰り返し告げている。

英雄の敵

ところが、英雄には敵がいる。

ここで音楽は急に、せせこましく、意地の悪い響きになる。木管楽器が、ぶつぶつと文句を言うように、耳障りな音でつつき回す。低い金管が、わざと不格好にうなる。

これは何を描いているのか。 批評家たち だ。シュトラウスは、自分の作品をこき下ろす評論家たちを、この意地悪でみみっちい音楽で戯画化してみせた。堂々たる英雄の旋律の隣に、揚げ足取りの小人たちを並べて、「こいつらが私を悪く言うのだ」と。悪意すら音楽にしてしまう。この皮肉の効かせ方に、私はいつも思わず笑ってしまう。

英雄の伴侶

そして、英雄には愛する人がいる。

ここで登場するのが、 独奏ヴァイオリン だ。コンサートマスターがひとり、長々とソロを奏でる。この場面が、私はこの曲で最も好きだ。

その音は、実に気まぐれだ。甘くささやいたかと思うと、急にじゃれつき、次の瞬間には拗ねたようにそっぽを向く。優しく、わがままで、可愛らしく、そして手に負えない。まるで表情のころころ変わる恋人のようだ。

このヴァイオリンは、シュトラウスの妻パウリーネを描いていると言われている。彼女は歌手で、気性の激しい人だったらしい。夫は妻の移り気な性格を、これほど生き生きと、そして愛情たっぷりに音にした。英雄の旋律とヴァイオリンが絡み合う場面は、二人の睦言そのもの。喧嘩しても、結局は寄り添ってしまう——そういう夫婦の温度が、そこにある。

英雄の戦い

幸福な時間は、破られる。遠くから、 トランペットの号令 が響く。

戦いだ。ここでシュトラウスは、舞台の外にトランペット奏者を配置し、遠くから迫り来る敵の合図を吹かせる。打楽器が地響きを立て、オーケストラ全体が戦場と化す。剣と剣がぶつかり、砂塵が舞い、叫び声が飛び交う——そんな混沌が、音だけで眼前に立ち上がる。

そして混戦のただ中で、あの英雄の旋律が、ひときわ高らかに鳴り響く。彼は勝った。あらゆる敵を退け、英雄はついに勝利をつかむ。ここの高揚感は、鳥肌ものだ。

英雄の業績

戦いに勝った英雄は、次に何をするか。彼は、自らの成し遂げてきた仕事を振り返る。

この場面でシュトラウスは、とんでもないことをやってのける。 自分が過去に書いた作品の旋律を、次々と引用する のだ。「ドン・ファン」「ツァラトゥストラはかく語りき」「ドン・キホーテ」「死と変容」——彼のそれまでの代表作の断片が、走馬灯のように織り込まれていく。

つまり彼は、こう言っているのだ。「これが私の業績だ。私はこれだけのものを世に残してきた」と。34歳にして、この自負。呆れるほどの自信家だが、同時に、それだけの仕事を実際にやってのけた人間の言葉でもある。過去の自分たちが集まって、ひとつの回想になる。私はこの場面に、ある種の切なさすら感じる。

英雄の引退と完成

そして最後、英雄は世を去る。

戦いも、名声も、業績も、すべてを後にして、彼は静かに退いていく。イングリッシュホルンが、遠くを見るように穏やかに歌う。荒ぶっていた音楽が、少しずつ凪いでいく。

終盤、あの英雄の旋律と、伴侶のヴァイオリンの旋律が、そっと寄り添う。闘い抜いた一生の果てに、隣にいてくれるのは、やはりあの人だった。音楽はどこまでも安らかになり、深く、満ち足りた響きの中へと溶けていく。まるで、長い一日を終えた人が、夕暮れの光の中で静かに目を閉じるように。

戦って、愛して、成し遂げて、そして手放す。それが、ひとつの生涯だった。

舞台裏の沈黙

この曲を演奏することは、オーケストラにとって一種の試練だ。

なにしろ、鳴らしどころが多い。40分以上、ほぼ全力で鳴らし続ける場面が続く。金管も弦も、体力を根こそぎ持っていかれる。エネルギーの大放出を求められる曲ほど、奏者は冷静に力を配分しなければならない。最初の戦いで燃え尽きたら、最後の安らぎまでたどり着けないからだ。

だが、この曲で誰より重圧を背負うのは、 コンサートマスター だ。

「英雄の伴侶」のあの長い独奏。あれは、オーケストラのヴァイオリン独奏の中でも、屈指の難しさで知られている。数十人の奏者と何千人もの客が見つめる中、たったひとりで、あの気まぐれで移ろいやすい音楽を奏でなければならない。技術的に難しいだけではない。刻々と変わる表情を、指揮者とも、オーケストラとも呼吸を合わせながら描き分ける。逃げ場のない、完全に露出した孤独。

リハーサルでこのソロが始まる直前、私はいつもホール全体の空気が張り詰めるのを感じる。指揮者がふっと手を止め、コンサートマスターが弓を構える。 その一瞬、数十人の奏者が申し合わせたように息を止める。 楽器を持つ手も動かさない。次の一音を、みんなで待つ。あの沈黙の中で、コンサートマスターだけがひとり、弓を弦に下ろす。音楽は、鳴っている音だけでなく、その音を全員が待っている静けさの中にも宿っている。

そしてもう一つ、舞台裏の話。「戦い」の場面で吹かれる、 舞台の外のトランペット 。あれは文字通り、演奏者がステージの袖や別室に隠れて吹いている。姿は見えない。遠くから響いてくるその号令を、舞台上のオーケストラとぴたりと合わせるのは、想像以上に神経を使う。見えない仲間と息を合わせる——それもまた、この曲の隠れた難所なのだ。

120年余り後の私たちが、なぜまだこれを聴くのか

1898年に書かれた曲だ。120年余り前になる。クラシックの名曲の中では、むしろ新しいほうだ。

自分を英雄に仕立て、妻を描き、批評家を茶化した、ある意味では自己中心的きわまりない音楽。そんな曲が、なぜ今も世界中で愛され、演奏され続けているのか。

私は、こう思っている。

この曲が肯定しているのは、 自分の人生を、自分が主人公として生ききること だからだ。

思い出してほしい。私たちは控えめであることを教えられて育つ。自分を大きく見せるな、出しゃばるな、と。その結果、いつのまにか、自分の人生の主役の座を、自分で降りてしまってはいないだろうか。誰かの期待、誰かの評価、誰かの物語の脇役として、日々をやり過ごしてはいないだろうか。

シュトラウスは、そんな遠慮をまるごと蹴り飛ばす。「私は私の人生の英雄だ」と、堂々と宣言してみせる。しかもその英雄の生涯には、敵もいれば、喧嘩する伴侶もいる。順風満帆ではない。批判され、闘い、傷つきながら、それでも彼は主人公であり続ける。

それは、私たちひとりひとりの人生と、少しも変わらない。誰の人生にも、意地悪な批評家がいて、手を焼かせる大切な人がいて、避けられない戦いがあり、そして必ず訪れる終わりがある。地味に見えるあなたの毎日も、正真正銘、ひとつの英雄の生涯なのだ。

なぜ今この音楽が必要なのか。それは、遠慮ばかりの時代に、「あなたが主役でいい」と、これほど堂々と背中を押してくれる音楽が、他にそう多くないからだ。

あなた自身の耳で

さて、聴き方の話をしたい。だがその前に、これだけは言っておきたい。

好きに聴いていい。 身構えなくて大丈夫だ。

40分は長い。すべての場面を追いかけようと気を張る必要はない。物語のあらすじを覚えていなくてもいい。ただ、音の大きなうねりに、身を任せてみてほしい。この曲は、細かく理解するより、まるごと浴びるほうが似合っている。

そのうえで、もし手がかりが欲しければ、三つだけ。

ひとつめ。冒頭の、あの大きく駆け上がる旋律をまず覚えてほしい。 これが英雄の顔だ。この旋律が曲のあちこちで戻ってくる。姿を変えて再登場するたびに「あ、また彼だ」と気づけたら、長い物語がぐっと追いやすくなる。

ふたつめ。「英雄の伴侶」の独奏ヴァイオリンを、じっくり聴いてほしい。 気まぐれにころころ表情を変える、あの音。恋人のわがままと可愛らしさを、音だけでどう描くのか。ここはこの曲でいちばん人間くさく、いちばん愛おしい場面だ。

みっつめ。最後の場面では、力を抜いて、ただ安らいでほしい。 戦いのあとに訪れる、あの深い静けさ。英雄が一生の果てにたどり着く安らぎを、あなた自身の一日の終わりに重ねてみてほしい。

そして、もしこの英雄の生涯が心に残ったなら。

次は、同じシュトラウスの 《交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」》 を聴いてみてほしい。冒頭の壮大な日の出の場面は、映画で使われて誰もが一度は耳にしたことのある、あの音楽だ。「英雄の生涯」の業績の場面にも、その旋律が顔を出している。

もう少し軽やかで、いたずらっぽいものに触れたくなったら、 《交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」》 。シュトラウスのユーモアと茶目っ気が、これ以上ないほど楽しく弾ける一曲だ。

急がなくていい。今日でなくてもいい。

ただ、いつか「自分なんて」と、人生の主役の座から降りたくなった日が来たら。そのときは、この冒頭の旋律を思い出してほしい。あなたも、まぎれもなく、あなた自身の人生の英雄なのだと——シュトラウスは、120年も前から、そう堂々と言い続けている。

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