静まり返った夜に、この曲は現れる
夜更け、楽器をケースから取り出す音がやけに大きく響く瞬間がある。街の音が途切れ、時計の針の音さえ意識に入り込むような、そんな静けさの中で、私はビーバーの《パッサカリア》と向き合うことが多い。 この曲は、気分が高揚しているときにはなぜか選ばれない。むしろ、言葉にできない疲労や、説明のつかない不安を抱えているとき、自然と譜面に手が伸びる音楽である。
最初にこの曲を知ったとき、私は「美しい」という言葉を使うことをためらった。そこにあるのは装飾ではなく、歩みであり、祈りであり、耐える時間だったからだ。聴く者に寄り添うというより、隣で同じ方向を向いて黙って立ってくれる音楽。 この感覚に、覚えがある人もいるのではないだろうか。
作曲家ビーバーという存在
ハインリヒ・イグナーツ・フランツ・フォン・ビーバーは、17世紀バロック期を代表するヴァイオリニストであり作曲家である。高度な技巧、スコルダトゥーラ(変則調弦)の大胆な使用、そして宗教的な深みを併せ持つ人物だ。
《パッサカリア》は、《ロザリオのソナタ(ミステリー・ソナタ)》の最後に置かれた終曲であり、単独で演奏されることも多い。調性はト短調、繰り返される低音主題の上に、変奏が静かに、しかし確実に積み重なっていく。
演奏者の立場から見ると、ビーバーの音楽には独特の「間」がある。音を語らせるのではなく、音と音の間に沈黙を住まわせる作曲家だと感じる。その沈黙は空白ではなく、信仰や思索が詰まった濃密な時間である。
繰り返しの中で変わっていくもの
Passacaglia(Andante)
《パッサカリア》は単一楽章の作品であり、その冒頭に記されている楽語は Andante。歩くような速さで、という意味を持つこの言葉は、この曲の本質を的確に言い表している。
低音のモチーフが、まるで地面に刻まれた足跡のように繰り返される。その上で旋律は、同じ道を歩いているはずなのに、毎回違う景色を見せる。最初は静かな独白のようであり、次第に内側の感情が露わになり、やがて再び沈黙へと戻っていく。
この音楽を物語にたとえるなら、劇的な事件は起こらない。ただ、一人の人物が夜道を歩き続ける。それだけの話だ。しかし、その歩みの中で、思い出し、迷い、祈り、受け入れていく過程が描かれている。
演奏する身体に起こること
この曲は技巧的な派手さを誇る作品ではない。だが、演奏者にとっては極めて厳しい音楽である。 音程のわずかな揺らぎ、弓の重さの変化、呼吸の浅さ――それらすべてが露呈する。逃げ場はない。
特に印象的なのは、音を出していない時間の長さだ。休符の中で、私は次の音を準備するのではなく、前の音が残した余韻を聴いている。その沈黙に耐えられなくなると、音楽は途端に嘘をつく。
リハーサルでこの曲を弾いていると、同じ空間にいる人間全員が無意識に息を潜める瞬間がある。誰も合図していないのに、空気が一段深く沈む。私はその瞬間に、「ああ、この曲は一人で弾いているのではない」と実感する。
なぜ、今この音楽なのか
ビーバーが生きた時代と、現代の私たちは、あまりにも異なる環境にある。それでも《パッサカリア》が今も演奏され続けるのは、人が抱える根源的な孤独や祈りが変わっていないからだろう。
この曲には希望を高らかに歌い上げる場面はない。しかし、絶望を煽ることもしない。ただ、歩き続けることをやめない音楽である。 立ち止まりたくなる瞬間に、「それでも一歩を」と語りかけてくる。
速さや成果を求められる現代において、Andante という言葉は、ひとつの抵抗のようにも聞こえる。急がなくていい、立ち止まってもいい、だが歩みは続けられる――そのことを、この音楽は静かに教えてくれる。
あなた自身の耳で
《パッサカリア》を聴くとき、特別な知識は必要ない。旋律を追わなくても、構造を理解しなくてもよい。ただ、同じ音型が何度も戻ってくることに気づいてほしい。
そして、その繰り返しの中で、自分の感情がどう変わっていくかを感じてみてほしい。同じはずの音楽が、途中から違って聴こえる瞬間が訪れるはずだ。
もしこの曲に心を留めたなら、同じビーバーの《ロザリオのソナタ》や、バッハの《シャコンヌ》にも耳を伸ばしてみてほしい。そこには、孤独を引き受けながら音楽を書いた作曲家たちの、静かな連帯がある。
音楽は、答えを与えるものではない。ただ、共に歩く存在である。ビーバーの《パッサカリア》は、そのことを最も誠実な形で示してくれる一曲だと、私は思っている。
